ぼくらが眺めているのは、「可愛い美浜ちよ」と「美味しそうな海軍カレー」なのだろうか。きっとそうなのだろう。
ちょっと下膨れな幼顔で小柄な美浜ちよは確かに可愛らしいし、とろりとライスにかけられるカレーを見ると、きっと実際に食べても美味しいのだろうと思う。
しかしそれらを基底で担保しているのは、どことなく家族関係を連想させられる女の子集団の中でのちよの立ち位置である。あるいは、到底採算の合わないカレーを作るため、石ちゃんが野菜を買い求める手続きである。実際に可愛くて美味しいのか、ぼくらは本当には知り得ない。ありありとした感覚で触れることは、遂にできないのだ。
榊さんがちよを心配して密かに打ち震えたり、あー可愛いなもう、とよみが苛立たしそうに叫んだりするとき、ぼくらは満足感を覚える。あずまんがを読んでいて良かったと思う。「まいうー」と石ちゃんが宣言するとき、安らぎを覚える。
可愛いと思うのも、美味しいと思うのも快楽。そして、快楽の主体を遠巻きに眺める主体であるぼくらは、遠くにいるが故に幸せなのだ。
快楽の主体、享楽の代理人としての石塚英彦や彦摩呂なくして、僕らの幸せ――間接的でもどかしく、だけど確実な――幸せはない。 「まいうー」というお約束の笑顔に、「IT革命の宝石...