何かを指して「どのくらいの価値があるのか」ということをわかりやすく表現するのに、
「どのくらいの交換価値を持っているのか」という形で表すのが
直観的にいちばん理解しやすいという判断が、俺の中にあったんだろう。
たしかにこれもまたひとつの固定観念だよな。
貨幣価値は、交換価値の判断の尺度として数値(自然数)によって表される価値を用いている。
「大金以上」というのは、どれほど大きな数値をもってきても決して交換できない、
つまり自然数の上で無限大なので測定不可能である、という意味を指すことになる。
だったら金額じゃなくて長さでも体積でも質量でも、数値によって言い表わされる尺度であればなんでもいいのかもしれないけれど、ついつい貨幣価値=交換価値に置き換えて表現してしまう。
それ以前に、そもそも「幸福はどのくらいの交換価値を持っているのか」という“入れ替え可能”な形でしか、他人に対して幸福の価値を表現できないという点で、たしかに俺の発想は(数値的な意味じゃなくて)貧困なのかもしれない。
友人A氏は決してできた人ではないと思う 私もどちらかというとダメ人間だ でもAは私を好きだと言ってくれるし 私もAの事をひそかに信頼している 付き合っていて嫌な事もいっぱい...
それはきっとどんな大金を積んでも買えないあなたの宝です。
これ、別に批判じゃなくてふとおもったからかくだけなんだけど 「大金を積んでも手に入れることが出来ない」 っていうこの文脈が日本中どこいっても通じるって、 なんかずっと日本で...
何かを指して「どのくらいの価値があるのか」ということをわかりやすく表現するのに、 「どのくらいの交換価値を持っているのか」という形で表すのが 直観的にいちばん理解しやすい...
いや、なんとなく。
砂漠地帯で「湯水のようにどんどん使うね」と形容してもニュアンスが伝わらないんだからいいんじゃないの。