立入禁止の場所でキャンプして川で溺死したというニュースがあった。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/news.yahoo.co.jp/articles/74f43643716ec34a5ad16cca805d97ecbfd88424
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20210504/1000063967.html
立入禁止区域に立ち入ったということで概ね被害者をDQN判定して、自業自得という評価をしているようだ。
しかし立入禁止区域に入っただけで溺死することが応報であるはずはない。
刑法的には精々過料である程度だろう。
だが立入禁止の禁を犯す人間を「DQN」と属性を付与し、
DQNであるなら死んでも誰も悔やまない、といった罰を与えている。
これはいかにも不釣り合いで、DQNという属性が差別に当たるのではないかと考えられる。
だが問題はDQNの定義ではなくて、「こいつは悪いやつだ」と感じたなら、
「そいつ」に「悪い」という属性を付与することが、どれだけ差別的なのかを検討すべきではないのか。
DQNという属性が付与されると、ただ単に立入禁止区域に入ること以外の、様々な「悪い」要素がもれなくセットで付いてくる。
今回の被害者は普段は善良でたまたまハメを外してキャンプをしただけかもしれない。
だけれど立入禁止区域に入るような「ヤカラ」は「DQN」に決まっているという「悪い」判定をして、
立入禁止以外の様々なカルマを背負わせ、溺死もやむなしという判決に至る。
判定した人の「悪い」概念が、個々人の事情を全く無視して悪人に仕立て上げられるのだ。
個々人の一要素(この場合は立入禁止区域への立ち入り)が、
DQNという様々な「悪い」概念と結びついて、
DQNという概念の持つ様々な悪さが全てこの個々人に還元されるという現象がここに見て取れるわけだ。
この不釣り合いが「差別」なのではないか?ということ。
さらにもっとはてなっぽくメタな視点を提供するなら、
このブクマ群の中で
「若者の命が失われたことへの哀悼と反省に思いが至らない社会」に対して「悪い」という属性を付与しているコメントが有る。
この悪い判定は差別なのかいなか?という視点も検討してみて良いと思われる。
相手を悪いと思ったところから、差別の種は蒔かれる。
悪い相手には打擲の力が暴走しやすいものだ。
そして悪い判定自体にも「バカというヤツがバカ」論法で際限なく増える。
弱者男性論議が喧しいが、弱者男性が悪いか否かという視点と併せて、検討してみたいところだ。