2019-11-16

母校を訪ねると大人になったことがわかる

西武池袋線から秩父線へと乗り継いで、山へ。忙しさが一段落したので、二十年ぶりに小学校を訪ねた。紅葉した木々に囲まれた故郷は、年月を経て再会した、かつてお姉ちゃんと慕っていた女性のように、俺を迎え入れてくれた。

最初に車の音を思い出した。都会とは違う音の距離、独特の間隔はあの頃のままだ。遊び場だった駐車場は残っていた。放課後に友だちと集まったマンションは健在だった。お化け屋敷として怖れられていた洋館風の家は昔と同じに蔦だらけだ。でも夢の風景によくある思い出と虚像のパッチワークのように、存在するはずのオブジェクトが無くなり、見慣れない施設が建っていた。公園の遊具からはあのグルグル回るやつが消え、ジャングルジムさえ失われ、残ったベンチは人の気配を欠いていた。行きつけの駄菓子屋はコンビニにすり替わっていた。横断歩道の場所はかろうじて無事か。でも学校に着いたときにズレは分水嶺を越えた。ああ、すべてがミニチュアだ。

グラウンドの狭さ、ゴールポストの低さ、正門の小ささ。花壇の重なったレンガ、ヘチマがなってた支柱。裏庭は果たしてこんなに窮屈だったろうか。ここで 30cm のバッタを見つけたと言い張ったことは嘘だったのか。クロアゲハが虫取り網の届かないスピードで飛び越えていった体育館の屋根は、はるか高みにあったはずだろう。ただ、校舎だけは変わらずに威容を誇っていた。

事実はどうであれ、過去は幻じゃないはずだ(何らかのバッタは採ってた)。その場にしゃがんでみることが俺には必要だった。俺はかつてここにいたんだよ。ここは俺の場所だったんだ。冬の遠い日差しは陰っていく。午後の校庭には子どもがまばらで、女の子がポニーテールを振って駆けていった。

その日のことを、LINEで妹に話した。しばらく会ってはいないが、こいつは主婦化してからいろいろな意味で丸くなっていると聞く。なあ妹よ、故郷ってなくなるんだな。でも決着をつけられてよかったよ。大人にはいつだって時間がないだろ。思い出す機会自体がそもそもないんだし。だから消えてしまわないうちにさ。

「向こうはそうは思ってないかもね」何を言ってるんだ。向こうってなんだ。「おにいちゃんは大人になったんだよ。大人の男性が柵の向こうから自分たちを眺めていたら、どう思うか考えて」大人は教えている。お化けじゃない、バッタじゃない。本当に怖ろしいと思うべきもの。あまり認知されていないが実は過去は上書きできる。もちろん事実は変わらないけれど、どうしようもない辛い記憶は、どこにもたどり着かなかった淡い想いは、正しく振り返ることさえできれば、意味を変える。誰にとっても人生は一度しかない。掛けることも替えることもできない。だからディスプレイ越しじゃない、遠巻きにでもない、自分自身の肌の感覚として分岐していた流れをマージすることに意義があると思う。故郷が消える。その前に学校を再訪する。そうしてよかったんだと、思いたい。だけど、見えなかった彼女の表情は、きっと笑顔じゃない。

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