真面目に答えず、出来る限り嘘と虚構を織り交ぜて答えていきたい。
そりゃあ、みんなセックスはしたいからだよ。
はい、おしまい。
……ザックリ回答した私の機微が分からないのか。
さして語りたいこともないが、そんなに言うなら答えよう。
まず踏まえておくことだが、セックスって何を目的にするんだ?
……そう、「子供を作ること」が目的だな。
その他の要素はその行為を助長するものであって、別にどうしてもってわけじゃない。
だが、むしろそれら「他の要素」が主目的な者も多くいるのだよ。
では、そんな人たちにとって最も邪魔な要素って何だと思う?
そう、「子供を作ること」だ。
人間たちが社会を形成していく中で、子供が出来るということは必ずしもメリットではなかった。
経済面での問題で生活が困窮するだとか、女性側の体の負担が大きいだとか、まあ理由はいくらでも思いつくな。
でも、彼らはそれを理解してなおセックスをやめず、子供が出来にくい方法を模索することに舵をとった。
愚かしく見えるかもしれないが、それほどまでに「その他の要素」が魅力的だったのさ。
とはいえ、これにはその時代ごとの背景、個人の事情なども考慮しなければいけないから私の立場で是非を問えることでもないがね。
さて、そんなことが長年続いた結果どうなったか。
社会の中でセックスという行為と、本来はセットであった「子供が出来ること」の要素に対する認識の間に、大きな“溝”が出来ていったのさ。
セックスはよりライトに、けれど子供を作ることはよりヘヴィに。
で、そんな社会では君の質問したように「子供が出来て困るならセックスするな」ではなく、「セックスはしてもいい、でも子供ができて困るなら避妊しろ」が“良識的な考え”になるということだな。
普通は「セックスはするな」という段階を踏まえての妥協案としての「避妊しろ」なのだが、大人はそういう前提の共有を省略したがるからな。
まだ未熟な子供にはいきなり「避妊しろ」と言っているようにみえてしまい、君のように違和感を覚えるんだな。
そんな“良識的な考え”は、要はエゴを隠した理屈で、大義名分なわけだけど、それでもセックスという行為を享受するためには必要なことだったわけだ。
だが現代では価値観の多様さが認知され、嗜好品や娯楽などの選択の幅が広がったこともあり、君のようにその“良識”に疑問を持ち始める人も増えてきた。
「『子供ができる』要素を排除してまで、わざわざその行為に及ぶ選択をする必要性は?」とか。
「その必要性の是非について深く考えているか分からないのに、『避妊しろ』という言葉が良識になっているのはなぜ?」とか。
他に明け透けな考えとしては、「性欲解消したいなら自慰でもやってろ」とか、「女性にとってセックスは暴力行為」とか、な。
昨今は特に様々な考え方を見ることが増えたが、視点こそ違えどそれら行為に疑問を投げかけている例だろう。
さて、ここまで書いておいて何だがな、個々の認識に関していえば別に難しく考えなくていいのだよ。
要は“選択の自由”ってやつさ。
何らかの要素を目的にしていて、その中に「セックス」という“選択”があって、更に「避妊」という“選択”がある。
そして、その選択自体が事実上は「許されている」(「認められている」と表現すべきかは悩むところだね)。
だったら、まあ後は個々で判断していくことさ。
「個人の自由」が便利な言葉であることは重々承知だが。
まあ、政治的な観点から是非を語ることだって、社会で生きるうえでは必要なことだぞ。
本質的な観点からみればエゴであることは変わらないけれど、その人たちの提示する“良識”も所詮はその枠組みでの話なのは百も承知だろう。
まあ強いて問題点を挙げるなら、「なぜ『セックスするな』ではなく『避妊しろ』なのか」の問いに対して、屁理屈を捏ねられる大人が少ないことかな。
ちゃんと屁理屈を捏ねられない人は、「そりゃあ、みんなセックスはしたいからだよ」ぐらいしか言い様がないからね。
……だから語りたくないっていったんだ!
増田とかブコメとかの、みんなスゴいライトにセックスしてる、みんなセックスしまくりって風潮なんだろ。 自分も人並み程度に恋愛関係に恵まれてるけど、そこまでライトにセックス...
つい半生記前くらいまではライトにセックスしてライトに堕胎してたからな。年間200万人の赤子が死んでたし。 避妊することを覚えただけでだいぶ人類は進歩してる。性欲の薄い連中も...