[森達也]
人は誰でも衝動や欲望を抱え、それを抑制しながら生きています。ところが犯罪被害者の場合は、復讐したいというネガティブな感情がなぜか肯定されてしまう。その憎悪を社会が共有しようとしています。でも実は、被害者遺族の深い悲痛や哀しみなど本当に共有できるはずがない。現実には便乗です。悪い奴は消してしまえという因果応報の感覚が、被害者遺族の心情をエクスキューズにしているだけだと僕は感じます。ところが正義という側に立っているという感覚がこの便乗を正当化してしまう。
[ピーター・バラカン]
人々を恐怖によって抑制するということを道義的に認めていいものなのかということに僕はちょっと、いいえ大変疑問があります。それは全体主義国のやることでしょ? 独裁者のやることですからね。民主国家と称する国でそういう政策を肯定することはおかしいと思います。極めて単純な話ですけど。
[雨宮処凛]
「仕事として人を殺す」ということを考えると、本当にそれは一人ではとても背負えないことをやらされている。そんなことを刑務官の人たちに押しつけていいのだろうか。それで保っている死刑制度というのは何だろう……すごく考えます。それを押しつけているのは私たち自身なのだということです。
[姜尚中]
人間のつくった制度に完璧なものはない。死刑制度は人間がつくったものだ。だからえん罪 のような「汚点」があっても、それは必要悪とみなせばいい。なんというおぞましい虚無的な三段論 法であろう。このような冷笑的なニヒリズムが「法の番人」を支配しているとすれば、公平な裁判所 で公正な公開の審理を受ける平等の権利が永久に奪われてしまう可能性があることは明らかである。
[鎌田慧]
死刑制度をささえる言語は、「潔く」と「男らしく」である。
悪いことをしたなら潔く死ね、男らしく責任をとれ、死んでお詫びをしろ。武士 道の精神のようで、卑怯未練に生き延びることは拒絶されている。ごくたまに、政 治家や経営者が、そのモラルに従って自殺すると、世間は納得したりする。処刑さ れるよりも、自殺に同情があつまるのは、民衆のこころの奥底に死刑の残虐さへの 忌避があるからのようだ。今回の容疑者のように、自分の生命の始末を、国家の手 に委ねようとしたのは、いちじるしい依存といえる。威嚇と依存によって維持され るのは、民主主義国家とはいえない。
[高橋哲哉]
戦争と死刑は国家が「合法的」と称して行なう殺人行為である。
人権という観念がなかった時代、国権が人権に優越していた時代には自明のものに思えたその「合法性」は、いまや化けの皮を剥がされた。いくつかの「大国」がいまだにその権利を容易には手放したがらないとしても、戦争の違法化と死刑の廃止は確実に歴史の潮流になっているからだ。
[中道武美]
死刑廃止というのは、加害者の命を救うというより、国家権力が人の命を奪ってはいけないといっていると思います。その意味では、被害者の人権や命を奪ってはいけないというところと、同じ基盤に立っているのです。
もちろん、被害者の人権は100%保障されるべきで、それを前提にして、死刑廃止をいっているのです。対立するのではなく、並存するものです。
[平田オリザ]
今は情報化社会で、そういった身体性がますます希薄になっています。戦争もテレビの中だけ、ブラウン管の中だけでいいわけですから。そうなると自分が痛いとか、返り血を浴びるとか、そういう感覚がなくなってくる。殺したい気持ちと、実際に殺すという作業の間には、本来はいろんな過程があって、どのぐらいのナイフを選ぶのかとか、どのぐらいの強さで絞めれば人は死ぬのかとか、自分の身体にかかわるいろんな段階があります。
しかし、死刑という制度に変えてしまうと、まったく身体性なしに、国家という機関が、代行して、それを行ってしまうわけです。そこがいちばんの問題だと思います。
[鵜飼 哲]
私には最近の傾向と思えることは、凶悪犯罪と呼ばれる事件が起き た直後の世論調査で、死刑に賛成と答える人がとても増えたことです。そのようなニ ュースに接すると、私はめまいを覚えます。というのも、簡単に人を殺すことと、簡単に死刑に賛成することが、結局のところ同じ時代の流れに属しているような、同じ 無思慮、同じ反射反応から出ているような印象を受けるからです。
[伊藤真]
人権というのは、あらゆる人の権利を認めるということです。よい人の権利だけを認めて、それを人権というのは間違いです。どのような凶悪犯罪を犯した人間でも、人間である、ただそのことだけで人としての権利があるのです。人であるならば人として生きる権利をきちんと認める。そこが人権の出発点です。そしてこの個人の尊重が憲法のもっとも重要な価値の根底にあると、私は考えています。