「趣味は何?」
この問いだけならば、ただのコミュニケーションの一環といえるものだろう。
取り立てて問題にするほどでもない。
これは医学的、疫学的に厳密に調査されたことではないが、多くの人の経験則だ。
多くの人は定年を迎えることで、強制的に仕事をやめさせられる。
その時、あなたには何が残るか?
「○○が趣味なの?そんなんじゃ駄目だ。△△をやりなさい。」
○○に入る事柄が反社会的なものでない限り、この発言は確かに不快である。
一つは他人の嗜好を否定している点。
このような自分勝手な言論は非難されても仕方がないだろう。
だが、その非難の言葉に「趣味教」という造語を用いるのは適切でない。
「趣味」という言葉の持つ意味は広く、趣味をもつ人の大部分は上のような身勝手な発言はしない。
にもかかわらず、「趣味教」という言葉はそのような人たちまで十把一絡げにしてしまい、必要のない軋轢を生む。
また、中立もしくは有益である上二つの言論にまで
「趣味教」などというレッテルを張ってしまっては、まともなコミュニケーションが成り立たなくなる。
日常生活の中で、元増田はこれらの言葉をかけられ腹が立ったのであろうが、言葉には気をつけるべきだ。
さもなければ、
・・・ウザいんですけど。
何様?
と言われるのは元増田自身である。
「趣味は何?」 「仕事だけの人生じゃ駄目だ。」 「○○が趣味なの?そんなんじゃ駄目だ。△△をやりなさい。」 ・・・ウザいんですけど。 何様?
「趣味は何?」 この問いだけならば、ただのコミュニケーションの一環といえるものだろう。 取り立てて問題にするほどでもない。 「仕事だけの人生じゃ駄目だ。」 これは医学...