誰かと意思疎通が可能になればなるほど、その人の中に、自分とは違う異質なものを見ることになるのだと思う。
それはつまり、わたしとあなたが違う存在であることを圧倒的に指し示す事実であって、その隔たりがある限り、わたしはその人ではなく、つまりは一個人としての孤独を感じる事になる。
犬や猫、イルカや牛、馬などの動物に対して人がどうして愛情を抱けるのか、どうして好きになることが出来るのか。
この前考えたのだけれど、おそらくはその動物の中にわたしと同じレベルで対峙可能な自意識を感じ取っていないからだと思う。
それらの動物との共有の言語による切り取られた形としてのコミュニケーションが取れないから、そこに同一レベルのあなたを見ることなく、むしろ私の一部として愛すことができるのだろう。
人は、孤独を嫌って、わからないことを知りたいと願って、どんどんわたしと他者の境界を目立たせているような気がする。
だから、闇雲にコミュニケーション力の向上ばかりを図っても、共有できないあなたが周りに増えていくばかりで、わたしはとても辛くなると思う。
私たちは、コミュニケーション能力に磨きをかけるのと共に、もっとわたしの範囲を広げることも念頭に置くべきなんじゃないかな。
断固として受け入れられないあなたが存在していてもいいのだけれど、その存在が現実にあることを認識すること、受容することを意識すると、わたしの拡張に広がるような気がする。
みんながみんな、広ぉいわたしを内に宿して生活できたらどうなるんだろう。
今よりも素敵になるのだろうか。幸せを感じられるのだろうか。安らかな日々が送れるのかな。
わからないことはいつだってたくさんある。もうこれ以上わからなくたって大多数の人にとってはどうでもいいこともたくさんある。
けれど、それを知りたいと思ってしまうこと、そしてその結果、ますます個人を浮かせてしまう人の本能のような傾向について考えるとき、私は無性にどうしようもない気持ちになる。
どうして人間ってこうなんだろう。
足掻いて足掻いて、必死になってもがいているのに、ちっとも満たされない。完璧な、あるいは完全な存在になることができない。
もちろん、身勝手な妄想なのだけれども、すんとさみしいような気持ちにならないわけにはいかなかったりする。
けれどもけれども、そんな人間が私は結構好きだったりするわけなのです。
本当に好きだったりするわけなのです。