差別されてた人が、団体とか作って、運動して、行政とかから是正措置を勝ち取って、
だんだん差別されなくなったり、経済的に不自由ない生活を送れるようになっていく、のはいいんだけど、
そうしていくうちに是正措置が利権とか既得権みたいになっていったり、
団体で地位を得た人がその団体を継続したい、地位を守りたいと思うようになっていく。
是正措置があることを前提に生活を設計してたりしたら、差別を「探し」て、
「まだ差別が残ってるから、もっと是正措置が必要だ」という事になってしまうんじゃないか?
差別を「なくす」のではなく、差別を「探す」ほうに重きが置かれてしまうんじゃないか?
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