2009-12-20

はてサ政治闘争という構造を乗り越えられるか

ある問題がある。正確にはそれが問題だと感じたり指摘したりする人がいる。この最初の問いかけは常に尊い。眠っていた問題をはっきりした問題にして新しい局面をつくることができる。

だが、はてサのやっていることは、大抵はネトウヨとただ単に言い争っているだけだ(問題提起だと言いたい人もいるだろうが、その問題提起は常にネトウヨと言い争うこととセットになっているのはどうしたことだろうか)。それでは「ああウヨサヨが言い争っているな」という構造は乗り越えることはできない。

はてサ歴史を論じたり思想を論じたりするとき、それは「ウヨサヨの言い争いの道具」と化し、信ぴょう性は彼らのサヨク性によって覆い隠される。どんなに正しくても無駄というか、政治レベルでは外野から「ウヨサヨの言い争いの道具に信ぴょう性がある訳がない」と思われても仕方がない。それはそういうものだ。だからはてサでありながら歴史や思想の正当性を論じることは、それそのものが歴史や思想の信ぴょう性を汚すことになる。

問題を解決したい場合はしばしば、「ウヨサヨの言い争い」そのものをやめなければならない。それがはてサにできるだろうか。


在特会クネクネしましたえらいでしょ、という記事を見てムカついたのでついカッとなって書いた。後悔はしていない。

記事への反応(ブックマークコメント)

ログイン ユーザー登録
ようこそ ゲスト さん