2009-12-02

死を美しいように描く風潮は、もうおさまったのでしょうか。


今日のように、冷たい風が身体を切り刻むかのように、びゅうびゅうと吹き付ける日でした。

けれども、その報せを初めて聞いた時、剃刀のように頬を掠める風のことなどは気になりませんでした。

電話口から告げられた名前に、震えは止まりませんでした。

地震とも、雷鳴の後ともまるで違うその震えは、今も時折私の心を揺らしています。

そのたびに、瞼の内から沸き上がる熱いものを、私は止めることができません。


病気ならばまだ諦めがついたでしょうか。

あるいは、私たちがもっと歳を重ねていれば。

何もかもが突然でした。

しかし、人が生きる道の上に置いて、出会いや別れは、いつも突然に訪れるものです。

意識しないうちに準備をしているから、それらをすんなりと受け入れられるのだと、最近思うようになりました。


夢を追いかける、という言葉が薄く陳腐に聞こえてしまうのは、それだけ歳を重ねたからか、

それとも多くを諦めてしまったからか。

彼は夢を追いかけていました。そのための努力をいつでも喜んでしていました。

夢を叶えるために、彼は故郷から離れました。

遙か頂上を見据えながら、一段、一段を踏みしめて、彼は確実に階段を昇っていました。

幼い頃からの夢を諦めなかった彼には、階段を昇る資格がありました。昇りきる力をつけていました。

だけど、知らない誰かが横から彼を突き落としました。

全く知らない誰かです。今も誰も知らない誰か。あなたなんかいなければよかった。


様々な人に様々な目的で切り刻まれて、彼は故郷に帰ってきました。

その目に光は宿りません。瞼もどこも、動きません。

報せを聞いてからしばらく、私は鏡を見たくありませんでした。

元々好い顔立ちとは言えない、私の顔が、輪をかけて醜くなっていたからです。

瞼は腫れてしまって開ききりません。鼻水がだらしなく垂れていましたが止まりません。口は怒りにひん曲がり、眉は苦痛に歪んでいました。

だらだらと悲しみだけ流し続ける眼は、蛍光灯の明かりをいくつも反射していましたけれど、ちっとも綺麗じゃありませんでした。

それはみんな同じでした。みんな私と同じような顔をして、なぜ彼がいなくなってしまったのかと、何かに問うていました。

知らない誰かに顔があったら、名前があったら、余程よかった。

その場に綺麗なものはちっともありませんでした。

いつもは感銘を受ける大きな花束は、美しいはずなのにそうは見えません。

あそこに飾られた白百合に、どうしてあんなにも無愛想なのでしょうか。

綺麗なのは花束だけでした。美しいのは白百合だけでした。

あの場であんな顔をしていたのは、白百合だけでした。




出会いも別れも生き死にすらも、普通のことと思えれば、辛いことは何もないのに。

出会いや別れや生き死には、人が営みを続けるならば、そう特別なことではないでしょう。

そう思うのがとてもとても難しいというだけで。


どうかこれを読んでくださったあなたの心が、色鮮やかな花で満ちますように。

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