「ずっと私がマサユキさんの面倒を見てきたんです。」
父は、母と離婚してからすぐ、この女性と暮らしはじめたらしい。彼女はサトウアケミと名乗った。父の訃報を知らせてくれたのは彼女だった。零細企業の社長だった父は、ある日会社で突然倒れてそのまま意識が戻らなかったという。あっけない最期だったと思う。
私たち兄妹が父と最後に会ったのは、両親が離婚した日であったから、もう5年も前だった。父と母の離婚の原因について、私たちは母に聞こうとは思わなかったので、父も母も亡くなってしまった今はもう真相を知るすべは無い。だが私は、きっと父のギャンブル好きと借金が原因だったのだろうと想像していた。だから、父の傍に彼女のような女性がいたということは意外だった。父は、子供の私が言うのも何だが、女性に相手にされるようなタイプではなかった。
まあ、そんなことは今となってはどうでもいいことである。私たちはあの日、父とは縁を切ったのだから。
父の死の連絡をもらって、迷ったあげくにお線香だけでもあげようと思い訪れた私たち兄妹にむかって、彼女は唐突に切り出した。
「遺産の相続を放棄してくれませんか。私には小学生の子供がいます。」
まっすぐに私たちを見つめる彼女の目は、とても疲れて見えた。彼女の子供というのは、年齢から言っても、父の子ではないはずである。父と彼女が籍を入れていたかは知らない。ただ、その言葉からは、彼女の必死さだけが伝わった。
「かまいませんよ。」
私も妹も、父の遺産を相続なんて最初から考えていなかった。そもそも相続できるだけの財産があるとは思えない。あっても借金だけだろうと思われた。父と母が離婚した時に、分与できる財産はほとんど無かったのである。彼女はそのことをわかっているのだろうか。そんなことを言いたいがために、私たちを、一度捨てたこの町へ再び呼び寄せたというのか。父と彼女が住んでいた2DKは、父の位牌のある部屋に行くためには台所を通る必要があって、流しには洗っていない食器が積まれていた。テーブルの上にはビールの空き缶が置かれている。壁はうす汚れていて窓も拭かれていない。部屋の隅に投げ出された黒いランドセルが、異様に目立った。
帰り道、私の胸をいい表せない空しさが襲った。会社のために、金も家族も自分自身も犠牲にして、すべてを失った父。離婚後、自由になれたと喜んだのもつかの間すぐに亡くなってしまった母。彼らが人生で得たものはなんだったのか。幸せな人生を歩めなかった人間は、いったいどうすればいいというのか。
「何にも言えないねえ」
妹が発した言葉はそれだけだった。私も何も言えなかった。「元気でやってるのか?」「お前は今、幸せなのか」本当はもっといろいろ聞きたかったが、聞けなかった。私は、妹の答えを聞くのが怖かったのかもしれない。