自分はその論争を追っているわけではないのでその論争がそうだとは言うつもりは全くないのだが、一般的な話として、「論争のための論争」「論争という形をとったコミュニケーションのための論争」というものが存在するのは否定できず、そのような論争は外野からすればしばしば不毛に見える。
問題を解決したいがために論争を始めたのが、論争それ自体がコミュニケーションの一手段となってしまうということ。
論争によって他者から承認を求める心や論争によって他者とのつながりを求める心というものが存在することそのものは別に悪いことではないが、それが本末転倒的に大きくなりすぎれば、外部から見れば「いったいなんなんだろう」というような論争になってしまったりする。
そういう論争を本当の論争としてしまっては駄目で、少なくとも自覚的にならなければならないと思う。
近頃はてサ界隈と増田の一部で盛り上がっているホロコースト否定論論争が 外野から眺めていて不毛に見えるのはなぜだろう
自分はその論争を追っているわけではないのでその論争がそうだとは言うつもりは全くないのだが、一般的な話として、「論争のための論争」「論争という形をとったコミュニケーショ...
自分も外野だが不毛には見えない。