心が休まったり休まらなかったりするのは、結局のところ自分の認識に自信が持てないからだ。自分の認識する世界と客観的な世界、言い換えれば他者とのコミュニケーションによって擦り合わせ可能な世界との間に、気付かない乖離がある可能性を捨てきれず、不安が生まれる。「俺が認識している世界」が、俺固有のものであることはほぼ間違いない。こういう不安をかかえる俺が普通に過ごすためには、「俺が認識している世界」と「誰かが認識している世界」を橋渡しする論理が必要なんだ。
「俺固有の世界が存在して、俺が死んだあともその世界は『俺が死んだあとの俺固有の世界』として続いていく」という想像は、「俺固有の世界」を拡張して破綻しない、優秀な論理であるように今のところ感じている。だから心休まる。
反論されたくないから言わないんじゃないんだ。うまく言えないけど。できるだけきちんと答えたつもりだけど、感覚は伝わっているだろうか。
どっちの考えだとか、どっちが心休まるだとか、心底どうでもいいとしか思えないんだけど、 こんなもんで「心が休まったり休まらなかったりする」人って、一体どういう人間なの? 煽...
前者がどうでもいいならそれもどうでもいいじゃないか。
そんなことはない。 こんなどうでもいいことで心動かされる人間が存在する、という事実には大いに興味がある。
質問への答えじゃないことを先に断っておく。 あなたみたいな質問をしてくる人って、経験上どんなに説明してもスッキリ笑顔で納得することはない。だからあんまり真面目に取り合い...
オーケー。では、俺は仮に納得しなかったとしても何も反論しないことを誓う。 君がどういう人間なのかをただ教えて欲しい。
心が休まったり休まらなかったりするのは、結局のところ自分の認識に自信が持てないからだ。自分の認識する世界と客観的な世界、言い換えれば他者とのコミュニケーションによって擦...