仮に10人で8つのいすを取り合ういす取りゲームをやってみたとする。普通に考えれば、2人は必ずいすには座れないことになる。
このいすに座れなかった人に対していろいろ言うことはできる。いわく、
「もっと俊敏に動く努力をしなかったからだ」
「本気で座る気がないから座れないのだ」
と。しかしまあ何をどういっても、ゲームを放棄する人が出てこない限り、2人が座れないのは事実なのであって、それを解決するにはいすの数を増やすしかない。この状況に対して個人が適応しようとするならば、「よりがんばっていすを取る方法を考える」というのが妥当なところであろう。ただいすが不足した状態でゲームを繰り返せば、前回座れなかった人が決死の努力でいすを取りにきたら今度は自分がいすを失うかもしれないという状況はずっと変わらない。
自己責任論はゲーム参加者の適応的な視点からならまだ許せるけれど、いすの数をどうこうできる立場にある人がそれを言っちゃあおしまいよということになりませんか。全員を座らせるためにいすを用意している訳じゃないのは確かだろうけれど、いすを増やしたり減らしたりできる人が、いすに座れなかった人に対して「努力が足りない」などというのはどうかと思うのです。努力する人を自分のいすに座らせたいと思うのは当然としても。
要は「2人座れないという状況を容認するかどうか」が考え方の違いなのかな、と。まあいす取りゲームはしょせんたとえ話ですから。
以下たとえ話に対するただの思いつき。
【いろいろな追加ルール】
・前回いすに座っていた人は次回もいすに座りやすい(がんばったと認められた人は報われる)
・いすに座れなかった人は座れなかった間何をしていたのか釈明しなければいすに座りにくい(別にがんばってなかった訳じゃないんだからね)
・特定の人しか座れないいすがある
・実はいすはまだあるのだけれど、座り心地がとても悪かったり、足が折れそうであまり座りたくない
・普通のいすに座れた人は「あそこに空いてるいすがあるんだからそっちに座りなよ」と自分のいすを守るため必死
【他にいすに座れる人を増やす方法】
・2つのいすに3人で座る
・自分でいすを作る
いすに座りたかった人、努力が足りないだけじゃなく自分が座りたい椅子を選んじゃってるってパターンもあるからなあー 遠いのに
イス取りゲームなのに、主催が文句いうなっていう所? http://anond.hatelabo.jp/20090109172623