うーん、分からないか。
例えばだけどさ、仮にある人間(A氏)が「○○事件は政府内に潜り込んだCIA工作員の陰謀である。事情通の私の目から見れば、断片的な情報からもそれは明らかである」とか主張してて、それがなんと、実は本当にそうだったとしよう。しかし、第三者にしてみれば、ここでAが言ってることが真実であるかは判断できないわけだ。
このとき、A以外の人間がAの主張を真とし、前提としてその上に議論を積み重ねることを要請される根拠は何だろう? 仮にあるとしてもそれは、単に「A個人の言うことを信じる」という信念を持ち、なおかつ信じた自分に責任を持つこと以外にありえないのではないか。
では、翻って、俺が例の(全くの匿名である)増田の議論に無批判に乗っからなければない理由はあるだろうか? ここまで書けば分かると思うけど、俺が増田の主張を受け入れるには、きちんとした手続きに則った議論を通じてしかありえないわけだ。ところが、彼は自分自身(ってか誰?)の無謬性を根拠に、議論はショートカットできる、逆らわず自分の前提をお前も共有せよと言う。それは明らかにダウトでしょ。俺がそれを受け入れる理由はどこにもない。
それを言うなら水村だって「私の議論は言語学の方法論に沿っていない」って認めてたんだから同じことじゃないか。
水村が「私の主張は言語学的にも正しい」と主張して言語学の権威を僭称してるならダウトだけど、君の言うとおりそうではないんでしょ。どちらにせよ、俺は「本題」自体の是非には関心ないので。
では、翻って、俺が例の(全くの匿名である)増田の議論に無批判に乗っからなければない理由はあるだろうか? ここまで書けば分かると思うけど、俺が増田の主張を受け入れるには、...