自分が、これまでに持てなかった「友達」が欲しい理由は、
自分の生きる価値を自分で認識することができないからだと思う。決め付けた。
妄想として、お互いに心の底から笑い合いながら話し合える、っていうのは、最高にお互いの価値が証明される瞬間だと思ってる。
「友達いらない」って言えるのは、自分の意志をちゃんと持って価値を見出した人だけど
自分には自分の肩肘突き通すぐらいの自信と意志がない。価値もないと思ってる。
でも、自分の親族は、環境として自分がどうあろうと自分の価値を全肯定してくれてたから、逆にそのことに価値を感じなくなってしまった。
親不孝だ。
別に価値を認めてくれるのは個人でなくっても良い。「社会」とかいうもっと曖昧なものでいい。
社会人として価値を認められる実感が欲しかった。だけど、それは無理だった。無茶だった。それはほとんど諦めた。
他人に価値を認められないとなると、次は、もう「他人なんてどうでもいい」と無理にでも割り切るか、
他人に価値を認めてもらえるように努力勤勉を極めるしかない。それはわかってる。
今まで無努力無勤勉だったのに、価値をすぐに認めてもらおうってのが無茶だった。
今まで見て来た価値のある全ては元からそうだったものだと思ってた。たぶんそれは、ほとんどの場合は、そうじゃないと思ってる。
でも、自分が何ができるのか、何をすべきなのかも分からない。
そこで志向が止まってる。
すごくよくわかるなあ 言い方悪いけど友達は自分の価値承認のための道具 それを感じるようになってから急速に精神的にひきこもるようになった 増田は友達以外で自分の価値を承認し...