「外見」→これで判断するなんて最低
「経済力」→外見よりはマシだけどこれもまだよくない
「性格」→これはOK!
と、下の要素にいくにつれどんどん判断材料として歓迎されていくが、これは「本人の努力でどうにかなる度合い」と比例しているな。
なんで数ある要素の中で「外見」がもっとも、判断材料としてよくないものとされるかというと、「外見」がもっとも「本人の努力であんまりどうにかなりそうにない」ものの一つだからだと思う。
「性格」はなんとなく気のもちようでなんとかなりそう(実はそうでもないが、そう思われている、ということで)だから一番許されている。
そもそも、数ある人間から誰か一人を選び伴侶にする、という事自体、本質的に差別的な行為であるからな。
「本人にはどうにもならないことで差別するのはよくないこと」という倫理感が、恋愛にも無意識のうちに作用しているのでは。
反対に、性格など、「本人がどうにかできるのにどうにかしていないことで差別するのは別にいい。ていうかそれは差別じゃなくて区別だし」と感じることで、誰か一人を選び取ることに後ろめたさを感じなくなるのだろう。
ことが美徳であるかのように語られるのは何故なんだろう。外見も、性格や経済力といったいくつもの要素のうちのひとつに過ぎないのに。
「外見」→これで判断するなんて最低 「経済力」→外見よりはマシだけどこれもまだよくない 「性格」→これはOK! と、下の要素にいくにつれどんどん判断材料として歓迎されていく...
見た目だけで選ぶ = ステータスとしての恋人を求めている みたいな思考が働くんだろうか。 「内面で選ぶ」と言うと生涯のパートナーを探している風に聞こえる。
ステータスかー、なるほどね。 見た目や経済力「も」考慮しているに過ぎなくても、見た目「だけ」で選んだとか、経済力「だけ」で選んだかのような語られ方がされるよね。 単なる...