クソ暑い、厭味なほどに晴れた日の午後、ソレは目の前に現れた。
ソレというのは、女子中学生のパンツ、である。
エコ対策の一環として、私は駅へ向い自転車を漕いでいた。
暑さでフラフラするが、二酸化炭素排出量を削減すべく、必死に自転車をこぐ。
その途中の交差点で、信号待ちをしているとき、彼女は目の前に現れた。
「人が必死でエコ対策として自転車を走らせているってのに、コイツラと来たら・・・」とお門違いの妄想を抱きながら、二酸化炭素を噴き出す自動車を見つめつつ、大人しく信号が変わるのを待つ。
真夏に交差点で浴びる車の排気ガスは最悪で、私の眼は半ば焦点が定まらない状態になりつつあった。
目の前には、制服を着た女子生徒。自転車にまたがり、同じく信号が変わるのを待っている。
おそらく中学生くらいであろうか。
日に焼けた肌とショートカットの髪型、スポーツバックからすると、何かの運動部員なのだろう。
ようやく信号が青に変わった瞬間、目の前にいた制服姿の女の子が一気にスタートダッシュをかけた。
よっぽど急いでいたのだろうか。
彼女は体を上下に揺すりながら、「ぬおぉぉぉぉぉぉぉ!!!」みたいな雄たけびが聞こえてきそうな勢いで(もちろん、実際にはそんな奇声は発していないが)、全力で立ち漕ぎをして駆けて行った。
実に豪快な立ち漕ぎであった。
スカートの後ろ側が捲りあがり、時間にして一秒ほど、パンチラではなく、パンモロ状態になるくらいの。
スカートが風になびいてパンツがチラリ、みたいなシチュエーションだったらありがちなのだが。
そんな甘っちょろいものではなかった。
完全にスカートの下っ端が背中に当たるぐらい捲れあがっていたのだ。
つまり、「パンツがチラリ」ではなく、「パンツがモロリ」である。
いや、モロリというのは、少しだ。
「チラリ」は日本語として存在しているが、「モロリ」っていうのは聞いたことがない。
「モロにロリコン」みたいな感じに受け取られる可能性もある。
まぁ、どうでもいいことだが。
基本的に日本男子というのは、幾つになってもド変態なので、女子中学生のパンツが拝めれば、これはとても嬉しいことのはずである。
しかし、今回の出来事は、いまいち嬉しくない。グッとこない。ハァハァしきれない。
何故だろうか?
それは、きっと「見え方」に問題があったのだろうと思う。
まず、チラリではなくモロリだった点。
次に、それが作為的でなく自然発生的に生じた点。
最後に、私が見たのが後姿のみであった点。
他にも色々あるだろうが、とりあえず、ここら辺に問題があったのではないだろうか。
まず、第1点として、パンツがチラリではなく、パンツがモロリだった点。
チラリズムという言葉はあるが、モロリズムという言葉はない。
Wikipediaによると・・・
チラリズムとは、全裸や性器の露出と言ったあからさまな性的アプローチよりも、偶然や何かの拍子に見えてしまう下着や素肌などが醸し出す淡い色気の方に興奮する性的嗜好を指す。
とのことである。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%81%E3%83%A9%E3%83%AA%E3%82%BA%E3%83%A0
きっと、パンチラだったら、グッと来たのではないだろうか。
なお、下記の記事を読むことも、問題を解き明かす上での参考になるかもしれない。
ただし、読んでしまうと、自分がとても残念な人間に思えてくるかもしれないので、そこら辺は自己責任で。
パンチラはなぜ最高??? - Yahoo!知恵袋
http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1015330320
次に、第2点として、作為的でなく自然発生的に生じた点。
わざと見せるようなモノより、ハプニング的な見え方の方が良い。
この考えは、原則としては妥当なものだと感じている。
しかし、物事には程度というものがある。
今回のケースでは、見えっぷりがあまりにも酷かった。
スカートがフルオープン状態だったのである。
これが、例えば、本人が作為的に捲りあげたものだとしたら、それはそれでグッと来たかもしれない。
しかし、ハプニングとして起こるには、事象として過剰すぎたのだ。
仮に、バナナの皮で誰かが滑ったとしよう。
このとき、尻餅をついた本人が「いた~い」とか笑いながら起き上ったなら、それはちょっと笑えるエピソードになる。
しかし、もし、転んで頭を打ち、ピクピク痙攣し始めたら、あなたは笑えるだろうか。
笑えるという人は、ちょっと社会人としては不適合だろう。大方の人には笑えない出来事であるはずだ。
つまりは、これと一緒である(強引すぎるかもしれないが・・・)。
パンチラは、誰もが楽しむことができる程度の、軽い事象である一方、パンモロは、ハプニングとして起こるには重すぎる事態なのだ。
自分で何を書いているの分からなくなってきたが、続けよう。
最後に、第3点として、私が見たのが彼女の後姿のみであった点。
これが、正面や側面から彼女の姿を見ていたのなら、また、別の対応があったはずである。
チェックポイントは色々あるけれど、何より、私は彼女の顔を見ていない。
顔を見ていないのは致命的である。
パンモロという過剰な事態に、興奮を伴うための情報が、明らかに不足していた。
これは私のミスとしか言いようがない。
しかし、顔を見ないことにより、リスクを回避していた可能性は無視できない。
パンモロというオプションをかき消す残念な という事態もありえたのだから。
いや・・・まてよ。
そうか・・・。
私は何を勘違いしていたのだろうか。
パンチラが良かっただの、パンモロは重すぎるだの、顔を拝んどけばよかっただの・・・。
何を妄言を吐いていたのだろうか。
神は私の目の前で”女子中学生のパンモロ”という十分すぎる現象を顕現してくれたではないか。
何も毎日、毎日、腹いっぱいになる必要はないのだ。
それでは、情報メタボになってしまう。
少しずつ、少しずつでいいのだ。
僅かでも、毎日を生きてゆける糧がある。それだけで幸せではないか。
ありがとう女子中学生、ありがとう全ての生きとし生けるもの達、ありがとう暑い夏の日・・・・
熱いよねぇ。ニッポンの夏。オリンピックの夏。