それは逆ではないのか?
重罰社会は法が厳守されることが前提であり、疑わしきは罰せずの原則が厳守されなければならない。
確固たる証拠なしに人に罪を着せることはできないはずだ。
冤罪があるから重罰がだめだ、というならばそれは法治主義の否定であり儒教的な人情において人を裁けと言うのか。
人情によって裁かれるそういった社会こそが冤罪を生むのではないか。私はそう考える。
冤罪を避けるために法を整備しなければならない。冤罪を生まないために法によってのみで裁かれなければならない。
疑わしきは罰せずという原則は今の社会において生きてはいない。
感情によってではなく法によってのみに裁かれる重罰社会こそが冤罪を減らす手段なのではないか。
また重罰社会において教育は今の私たちの受けているものとは明らかに違うものになる。子どもたちは私たちより多くの社会についての事柄を学ばなくてはならなくなるだろう。
ついでにもう一つ加えておこう。 利益は重罰社会にある。 1.冤罪があるからだめだ、というならば現状の社会すら意味がない。重罰社会化によって減らされた犯罪(これは予測不可能...
実現性のまったく無い議論はするだけ無駄。 もし本当にその議論は傾聴に値するなら、それなりに学会で出てくるだろう。 しかし、そのような事を言っている人はいない。 ということ...