2008-06-08

「死」について考えてみた

私が「死ぬのは怖い」と思うときの死、それは「自分の存在がなくなること」だと思う。

では「存在がなくなること」を死と定義するなら、

自分が死ぬときに「存在がなくなること」は知覚できるか。

”死”の瞬間に存在の消滅を自分で知覚できるか。否、できないだろう。

ということは、私は自分の死を認識できない。

認識できないなら、私の”死”は私にとって存在するのか。

他者にとっては存在するが、私にとって私の”死”は存在しない?

上の死と同様に、私は睡眠に落ちる瞬間を認識できずに、

睡眠中は自分の存在認識できない。

では死を、「自分の存在知覚できず、身体も維持できずに散逸してしまう状態」とする。

上で考えたように、この状態は私には知覚できない。

知覚できないはずなら、痛くもないし、怖くも悲しくも無いはずだ。

ではなぜ怖いのか。”意識”がなくなるのを恐れるのか

しかし意識睡眠時や麻酔時になくなってしまう。つまり意識は消えたり現れたりしている。

普段意識がなくなるときは、「この意識が最後の意識である。」とは思わない。

つまり「意識がなくなること」自体は怖くないはずである。

では「自分は死ぬ」と思わず死んでしまった人は、死の恐怖にさいなまれなかったと言えるのか。

自分が死んだ後に変わること、それは「自分の”ある”世界」が「自分の無い世界」になるだけである。

私が死んだことで、特段に世界は変わるはずも無いが、”私が死んだ後の世界は変わらない”とも言い切れない。

私が死んだ1秒後には、地球はなくなっているかもしれない。つまり、私の死んだ後には、私の世界存在するとは言い切れない。

「私の世界存在する」と認識できないから、言い切れるはずも無い。

また、言葉世界認識する道具と考えるなら、私が使う「私の言葉」は私の存在が無くなれば永遠に失われるので、もう私の世界

”厳密に”理解する人は存在しないのである。書き残せばある程度伝えることは可能であるが、言葉が”変化する”という本質を持っていること、

言葉に宿る「私だけの言外の意味コノテーション?)」を考えると、私の世界を理解することはもう誰にもできない。

では、「私の世界」とは何か。それは「私が考える”世界”」であり、「私が生きた『私が考える”世界”』」である。

それは言葉ですべてを言い表すことができない世界である。私達は世界言葉で分節し、認識すると考える。

つまり、私たちは言葉で思考を行うが、感覚をすべて思考にすることは不可能である。

感覚には、「生きているうちに、思考しない部分」という要素もあると思う。

その感覚が「私が生きた『私が考える”世界”』」である。

つまり、私は認識だけでなく、私が世界に対して感じたはずの感覚永遠に失われることを恐れる。

言葉で言い表せない分、この部分は私にとっては「私だけのもの」のはずである。

私だけのもの、つまり「私だけの世界」。私は私だけの世界をなくすのが怖い。ゆえに死を恐れる。だから死にたくないのである。

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