私が「死ぬのは怖い」と思うときの死、それは「自分の存在がなくなること」だと思う。
では「存在がなくなること」を死と定義するなら、
”死”の瞬間に存在の消滅を自分で知覚できるか。否、できないだろう。
ということは、私は自分の死を認識できない。
他者にとっては存在するが、私にとって私の”死”は存在しない?
では死を、「自分の存在が知覚できず、身体も維持できずに散逸してしまう状態」とする。
上で考えたように、この状態は私には知覚できない。
知覚できないはずなら、痛くもないし、怖くも悲しくも無いはずだ。
ではなぜ怖いのか。”意識”がなくなるのを恐れるのか
しかし意識は睡眠時や麻酔時になくなってしまう。つまり意識は消えたり現れたりしている。
普段意識がなくなるときは、「この意識が最後の意識である。」とは思わない。
つまり「意識がなくなること」自体は怖くないはずである。
では「自分は死ぬ」と思わず死んでしまった人は、死の恐怖にさいなまれなかったと言えるのか。
自分が死んだ後に変わること、それは「自分の”ある”世界」が「自分の無い世界」になるだけである。
私が死んだことで、特段に世界は変わるはずも無いが、”私が死んだ後の世界は変わらない”とも言い切れない。
私が死んだ1秒後には、地球はなくなっているかもしれない。つまり、私の死んだ後には、私の世界が存在するとは言い切れない。
「私の世界が存在する」と認識できないから、言い切れるはずも無い。
また、言葉が世界を認識する道具と考えるなら、私が使う「私の言葉」は私の存在が無くなれば永遠に失われるので、もう私の世界を
”厳密に”理解する人は存在しないのである。書き残せばある程度伝えることは可能であるが、言葉が”変化する”という本質を持っていること、
言葉に宿る「私だけの言外の意味(コノテーション?)」を考えると、私の世界を理解することはもう誰にもできない。
では、「私の世界」とは何か。それは「私が考える”世界”」であり、「私が生きた『私が考える”世界”』」である。
それは言葉ですべてを言い表すことができない世界である。私達は世界を言葉で分節し、認識すると考える。
つまり、私たちは言葉で思考を行うが、感覚をすべて思考にすることは不可能である。
感覚には、「生きているうちに、思考しない部分」という要素もあると思う。
つまり、私は認識だけでなく、私が世界に対して感じたはずの感覚が永遠に失われることを恐れる。
言葉で言い表せない分、この部分は私にとっては「私だけのもの」のはずである。