2008-05-31

森博嗣が終わる2.1

最初の頃、私は自分のいいと思ったものをみんなに理解してもらいたいという欲求があり、それは当然ある程度の範囲である程度の理解でとまってしまう。私の快進撃は続かないのでしたのだ。

その後には、学問と相対した成果なのか、そういったことは途方もないことであり、全ての人がわかりあうのは無理だということを実感として強く思った。ネットが普及したあたりにやはりその思いは強くなり、個々の細々な意見を見るたびに当然と思うようにもなった。

だがそれで嬉しいということもなく、ただその広大さにぽかーんとしているだけだった。

今は自分がわかればいいと思うようになった。驚くべきことに私は自分の好きなものを追い求めるだけで幸せになった。

また、自分に合わないもの、未知なものについても濫読濫験の日々よりもずっと摂取できるようになった。もちろん濫読という方法が間違っているかどうかの判断をするには幾分足りない。

この幸せなさまをわかってほしいとたまに思うけれど、やはり不幸せに見えることもあるらしい。殻に閉じこもるように思えるのかもしれない。そうでないのかもしれない。

森博嗣スタイルに近づいたのかもしれないが、なんと言うかそれはどうでもいいし、スタイルに近づいても実質的にしょうがない。

作家になれるわけでもお金持ちになれるわけでも、有名になるわけでもないからだす。

それでも強く思うことは、まだ生きている人の歩みであるとか息遣いであるとか、そういったものを日記を通して感じていた私が、ある時期をもってまったくその消息を知りえなくなってしまうという。そのことを思うと、取り残されたような寂しさを感じる。寂しいかどうかもよくわかりません。わからないです。わかる気がしませんがそれほど大事でもないとは思う。時事のことに触れない、さらに最近は同じことを繰り返す比率も高くなっていて、さらに私は未読の作品を多く残していて、一体何の贅沢様での寂しさかと思う。

それでもなお毎日の中でその声に触れたいと思う。それでもなお毎日の生活を知りたいと思う。というわけでもなく

置いてかれる感じがあるような気もするが、じゃあ近くに住んでたまに会いましょうと言われてもあんまり魅力的には思えない。

どうなっているのか。

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