顔がきれい/かっこいいという評価は美術を評価するのと同じ側面があるんではないか。
美術史があるように、どんな顔が美しいとされてきたかという歴史もあって、
ある程度の努力(化粧、髪型を合わせて変える)をもって、
その要求に男女が歩み寄るなどしてきた。
各時代のきれい/かっこいいと言われる顔はそれぞれのスタイル、
カテゴリーとして残り、時代とともに増えた多様性を
言える豊かさがある、と言うと言い過ぎかもしれない。
ある種類の人がある種類の容姿を好むということがある。
というのはよく言われることのように思う。
外人のことが好きな女性というのもなにか共通項がある気がしてならない。
少し話しがそれてしまった。
また、みんな好みではないがみんながきれい/かっこいいと言うのは分かる、
という感覚もあるんじゃないだろうか。
こういうとき、自分は独自の傾向を持っていると意識しながらも
一般的な価値観に対しての共有を残していると本人は考えている。
同じ価値観を共有していれば、
多くの人とコミュニケーションも円滑になろうというものだ。
まとまらなくなってきたけど、
なんでこんなことを書いてるかというと、
自分が理解できないきれい/かっこいいを理解するということは
理解できる、理解できない、理解できないから理解したい、
というような、まわりはこう言っているが
自分には理解できない/できる、といった
主観的な評価だけじゃ終わらないまわりとの関わりを意識した評価が
されることが結構あると思う。
けど顔ときたらえらい主観的じゃないか!
かっこいい!全然かっこよくない!
よさを理解することで自分を深めることが出来るかは分からないけど、
美術品のようにある共通理解を自分に組み込むことが出来るし、
美術品のように理解は必要なことではないけど、
自分をより深めることにもなるんではないか。なるよ!たぶん
こう書くと、ストライクゾーンの広い人はかなり深みのある人のようになるけど、うーん。
まあ好みの傾向が狭く、みんながきれい/かっこいいというのも理解できないというのは
顔を一面的にしか捉えられてないんじゃないだろうか。
顔がもつ表現力はそんな浅いものじゃないよ、と言いたい。
整形というのがなぜ嫌われるか、というのも
この話と関連がありそうだけどもうまとまらないで一旦終了。