2008-03-15

論語は「共同体の一員として生きること」を至上価値、及び思考する上での大前提としているため、

馴染めない人は徹底的に馴染めないかもしれない。自分も初めはあの共同体至上主義ともいうべき

価値観に辟易していたし、もし日本に影響を与えた古典でなければすぐにでも放り投げていただろう。

しかし、結局のところ自分は共同体へ帰属することなしには生きながらえないのだということを

おぼろげながら自覚するに到ると、徐々にその見方が変わってきた。論語は自分のような人間のために

あるのではないかと思うようになったのだ。

例えば「巧言令色卑仁」「剛毅木訥近仁」という言葉がある。孔子はここで言葉巧みな者を攻撃し、

しゃべり下手な人間を擁護するけれど、「言葉足らずな方が徳が高い」というのはやはり、嘘だ。

価値顛倒だ。誰だって自分の感情や思考を巧く伝えられたらそれに越したことはないはずだし、

そこにはある種のルサンチマンがあるような気がしてならない。

だが、そのルサンチマンははたして誰のものだろうか。孔子自身のものではない、と自分は思う。

彼は非常に雄弁な人だったようだ。論語には諸侯の問いかけに当意即妙の答えを返し、含蓄ある

言葉を以って弟子たちを導いた姿が度々描かれるし、実際そのような人でなければ人望を集めることなど

できなかっただろう。

おそらく、孔子が生きた時代にも自分のように口下手な、そしてその他の対外的な能力にも劣る人間

いたのではないか。孤独生きる者はともすれば道を踏み外す。彼はそのような人間の受け皿になろうと

心情を代弁したのではないか。

もちろん今になっては孔子の真意を知ることなど不可能だけれど、少なくともこの古典が今まで

読みつがれてきたのは、論語言葉によってその心情を代弁されたと感じた静かなる支持者たちが

少なからずいたためではないかと思う。論語共同体への恭順を説くけれど、その実アウトサイダー

対して優しい。それも聖書のような無責任で非現実的ともとれる優しさではなく、真摯で現実的な

優しさだ。だから自分は論語共同体生活の入門書として読む。

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