最近滅茶苦茶な例えをしたり、そもそも例える必要があるのか?というところで例え、より分かり難くしたり、例えの役目は既に終わったというのに、何故か例えをメインにして話し始めたり、「例え」が暴走している気がしてならない。
例えが暴走すると、大抵議論はぐちゃぐちゃになる。何について話しているのかすらぐちゃぐちゃだ。
自分の出した例えがやたら気に入っているのか、やけに例えに固執したがる人もいる。「その例えはおかしくないか?」と言われてもやけにその例えをプッシュし続け、いつのまにか議論の矛先は「その例えがどうしておかしいか・おかしくないか」という方向へ流れたりもする。
例えなんてのは結局、より分かりやすく伝える為の手段でしかない。
相手が「それはおかしくないか」と疑問を持った時点で、例えの働きは失敗している(というより、相手がおかしいと思えてる時点で、そもそも例える必要がなかったのだろう)。固執するのは、単に、「この例えどうよ?美しいだろ?」と言っているに過ぎず、全く本末転倒だ。
大抵の例えがそもそも、より分かりやすく伝える手段というよりも、「お互い既に相手のいいたい事は分かっていて、その上で反発している」という状態において、「より相手を言いくるめる」為に使われてしまっているのが問題な気がする。その時の例えというのは、より分かりやすくというより、自分に有利な様に、ある部分を極端に大袈裟にし、作為的にしたものになっている。そもそも反発している相手にそんなものを出したところで、相手は当然「その例えはおかしい」と言い出すに決まっている。そしてその相手もまた、自分に有利な極端なものを出す。ここには「より相手の思っていることを分かろう、分かりやすく伝えよう」という意思ではなく、「相手をより早く言いくるめよう」という意思が働いている。うまいこといって、相手を納得させてやる、という用途で例えが使われてしまっている。その上での例え合戦など、ナンセンス極まりない。
お好み焼きを切らずにかじって食べるか、箸等で切り離して食べるかと言う論争があった場合に、丸ごと派が「お前はたこ焼きを切り離して食べるのか」といったり、切り離す派が「お前はピザを切らずにかじって食べるのか」といったりする、こういう例え論争は本当にナンセンスだと思う。結局お互い分かり合おうなどとはせず、ただ自分の意見で相手を屈服させる事しか考えていないのだから。例えというのは本来、「お好み焼きをかじって食べるってどういう事?」「ハンバーガーやクレープのように、切らずにそのまま食べるって事だよ」というように補助説明として用いる物であるのでないか。例えの話をしておきながら、例えが下手なのはご愛嬌っちゅーことで。
「要するにカルボナーラで言うと」まで読んだ
カルボナーラをさがしちゃった。 酷い!増田わたしをもてあそんだのね!!
この「たとえ」を読んで、メタなのかベタなのか、わからないものなのだよなあ、と思っていましたという、日記。