2010-06-15

環境への適応

 体を折り曲げなければ収まらない小さなユニットバスの暮らしに慣れて、しかしふとした折に温泉銭湯などに入るとどこか落ち着かなくなる。私は結局ひろい湯船の端でひざを折り曲げて湯につかっているのだった(一体に、やり慣れている窮屈なはずの姿勢と手足をのばした落ち着かない姿勢とではどちらが科学的に体によいのだろうか)。

ところで、このような本来のびのびできる場面で自ら縮こまっているということは、なにもこのような卑近な例に限らないのではないだろうか。たいていの場合縮こまっている自分気づきもしないでいるのだ。

 逆向きにも考えたい。狭いところから広いところへ、窮屈で不自由な状態から自由で開放的な状態へ適応するとき、私たち何かを忘れたり失ったりしないか。窮屈な状態にいるときの感覚も確かにリアリティであるということや繊細さなどが思い浮かぶが、これについてはまたの機会に考えることにしよう。

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