2007-07-23

http://anond.hatelabo.jp/20070723113738

人が「理解」「解明」に求めることは究極的には「なぜ自分がこのような目にあうのか」というようなことで、科学にもそれを求めていると思うんだ。でも科学ができることというのは増田の言うとおり

ところで、科学が説明できるのは因果関係というよりは、繰り返し観察できる現象の対応関係です。また、一回的な現象を科学は説明することが出来ない

だから、ニーズと実態にずれがあるわけじゃん?で、それは科学が進んでいる進んでいないには関係のないことだなあと思うわけよ。

記事への反応 -
  • 科学を突き詰めていくと、科学で説明できることとできないことがあることに気づき、そこに宗教が入り込む隙が生じる。

    • 「宗教の入り込む余地」というのは、科学を突き詰めた先にあるのではなく、科学のあり方と人間のニーズの合間にこそある。 科学は、どうしてその事態の原因と結果を説明することは...

      • 「宗教の入り込む余地」というのは、科学を突き詰めた先にあるのではなく、科学のあり方と人間のニーズの合間にこそある。 この部分がよくわからない。

        • 人が「理解」「解明」に求めることは究極的には「なぜ自分がこのような目にあうのか」というようなことで、科学にもそれを求めていると思うんだ。でも科学ができることというのは増...

          • 人が「理解」「解明」に求めることは究極的には「なぜ自分がこのような目にあうのか」というようなことで、科学にもそれを求めていると思うんだ。 昨今の上記のような期待感は重...

      • 原因と結果というものはなく、結果とは原因の特殊な状態であり、そのあとにはまたあらたな結果が続いてゆく。

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