最初に読んだ時、悪の幹部のちょっとエッチっぽい枠っていう昭和臭さの究極みたいなキャラだと思ってた。
後半、作者の画風が古風なせいもあってイマイチ魅力的とも言えないくせにやたら出番の多いこのキャラを疎ましく思っていた。
鑑合わせのディアマンティーナの結末を読み終えてから、ようやく気づく。
このキャラクターが与えられていた役割。
本当に鑑合わせだったのは何だったのか。
最古の四人はフランシーヌに向けられたフェイスレスの「愛」を四分割したものだ。
「肉体的欲求」
「奉仕精神」
「人生の使い道」
「愛の渇望」
そしてその全てに「傲慢で独りよがりの」がついていた。
この四人がそれぞれの形でその傲慢さを貫いた果てに、その形を自己完結以外の形に持っていくことが、最終局面におけるフェイスレスの姿を予言していたというのが、からくりサーカスという物語を支える屋台骨の一つとなっている。
ドットーレは他者の言葉に耳を傾けた果てに「一人の相手に拘る理由はない」と気付き自己崩壊を起こした。
パンタローネは「己の役割を得ることの幸福」へとたどり着く。
アルレッキーノは「命を捧げたことに後悔のない終局」の中で瞳を閉じる。
そして、コロンビーヌは、「愛とは与えられるものであり、無理やり差し出させるものではない」という本質へとたどり着く。
この物語の始まり、そして最大の誤りを、コロンビーヌは克服した。
それを克服することのない愛の愚かさを再演するディアマンティーナを前に、フェイレスは自分の過ちにようやく気づくのだった。
円卓伝説に、『ガウェインの結婚』という物語がある。
その物語は「人が恋人に最も望むものは、自分に選択する自由を与えてくれることだ」という教訓を持って物語を締めくくる。
まさに、コレなのだ。
「愛を与えるかどうかを選ぶ自由」をフェイスレスは相手に許さなかった。
だから望んだように愛されることが出来なかったし、己が望んでいる形以外の愛を否定し続けることになってしまった。
「愛を欲するなら、愛を与えるかどうかを選ぶ自由をまず与えよ」
このある意味で絶望的とも言える基本原則と相反するものが「夢は必ず叶う」なのである。
どんなに努力しても叶わないかも知れない夢、それが「愛されたい人に愛されること」であることに、気づけなければ人生という地獄の機械に全てを引きちぎられてしまう。
からくりサーカスの物語の最も中心を通っているとも言える哲学が、コロンビーヌの物語には反映されている。
エッチっぽい雰囲気を醸し出したり、童謡を口ずさんだり、コロンビーヌの言動は全体を通して読者に「このキャラは重要ではなさそうだ」と見誤らさせてくる。
読み返すたび、思い返す度に、コロンビーヌを軽んじたことが誤りであったことに気づく。
コロンビーヌはからくりサーカスで最も重要なキャラクターの一人だ。
漫画を読み慣れている人は、一発で見抜いたかも知れないが、俺には無理だった。
アルレッキーノとパンタローネの最後に男泣きするのが俺の感受性では精一杯だったよ。
今はもう誰の物語でも泣ける。
なつかし
何故この増田に一桁しかブックマークがないのか
おじいちゃんさあ 20年以上前の漫画の話誰も興味ないよ
古い上に何番煎じの解釈だよって話で こんなんが大事なのは本人だけ