「一切無い」わけではないなら「馴染みはある」はずと思うんだけど。
日本に限らず、たぶん欧米でもunderstandって言ったら失礼になる場面はあるんじゃない? 日本人同士でも状況による
undarstandが失礼だとしても批判的思考は普通にあるぞ。お前の考えはなんなんだって訊かれるのが当たり前だし。
日本人のほうが批判的思考に対するなじみが薄いからこういう違和感が出てくるんじゃないかって話
いやだから「日本の一般大衆ってほんとにそんな批判的会話が一切ない世界観で生きてるもんなのか?」と書いたんだけど…。
馴染みがない→批判的会話が「一切ない」世界観で生きてる に勝手に置き換えている 相手の発言をねじ曲げて極論化する、駄増田の常套手段
「一切無い」わけではないなら「馴染みはある」はずと思うんだけど。
??どゆこと? とりあえず日本語の意味的に 一切ないわけではない=馴染みがある に違いない、にはならないので何言ってんだとしか
うーん、例えば、日常生活でタガログ語を使うことは「一切ない」のでこれは「馴染みがない」。 でも中国語を目にすることはそれなりにあるので「馴染みがない、わけではない」とい...
それ一回プリントアウトして 国語の講師の先生か誰かに見てもらったほうが なんにしても「中国語を目にしたことがある程度」で、馴染みがある(慣れ親しんでいる)とは言えない...
それはつまり、日本の一般の人々にとって「批判的思考」は「中国語」と同じくらいのレアさでしか触れてないという理解でいいんだろうか?
私は増田の日本語の理解がおかしいと指摘したまで 増田が勝手に中国語を例えに出してるだけで 同じレアリティとは言ってない
なるほど。じゃあ「中国語」のレアリティと比べて「批判」のレアリティはどんなもんなんだろうか。
いや、俺としては 馴染みがない→批判的会話が「一切ない」世界観で生きてる に勝手に置き換えている点を問題視していただけの横田なんで その辺を正すのならそれ以上の討論をす...
馴染みがない→批判的会話が「一切ない」世界観で生きてる に勝手に置き換えている点 ではそこについてはより具体的に「批判的会話について、世間一般の日本人が中国語に親しむ...
だから何でそこで中国語が入るのよ 中国語と比較することに、そもそも妥当性はどこにあるのか、から提示すべきでしょうに これだから「僕の感覚は絶対!」マンは困る
中国語と比較して中国語より見かけるか否かで「馴染みがある」か否かは証明できないのでは というか、なぜ中国語がそれを量る基準となり得ると思っているのかが謎
うおー話通じねえな。 「批判的会話について、世間一般の日本人が中国語に親しむ機会と同程度以下の機会しか持たない世界観で生きてる」 は俺の疑問であって、https://anond.hatelabo.jp/2022...
中国語を目にしたことがある程度で 中国語会話の中に入れられても対応に困るような 結局、増田が「僕はそう思うから」と言い続ける限り、この話はどこまで行っても平行線のまま...
「僕はそう思うから」しか言ってないのはお互い同じじゃね?「そう思う」の内容を理解しようとしてるだけだぞ。
>「僕はそう思うから」しか言ってないのはお互い同じじゃね? 増田はそもそも「馴染みがある」という言葉の捉え方や用法がおかしかったからツッコミ入れられていた自覚はないわ...
ここまで言ってもまだ納得できないなら さっきも言ったように、プリントアウトして国語の講師とかに見てもらえばいい 埒があかない
当然だけど「一切ない」わけじゃない。部下が上司に「なるほど」と言ったら失礼かもねと。
「部下が上司に言ったら失礼かも」というのは俺の感覚では「ほとんど一切批判的思考が無い世界観で生きてる」ということになる。そもそも批判的に考えることという文脈で「部下」...
>「部下が上司に言ったら失礼かも」というのは俺の感覚では「ほとんど一切批判的思考が無い世界観で生きてる」ということになる ??? 「その指摘はあたらない。なぜなら僕が...
普通にまじで理解できないだけなんだよ。俺がいままで所属した環境はすべて相手が誰だろうと批判的思考は当たり前だったから。
世の中が合理性でできていれば上司に敬語を使う必要もなくなる。いちいち言葉遣いを考えるのが無駄だから。そうなってないのが現実だから、批判的思考をしつつそれを隠すというよ...
俺の感覚では相手に敬意を持つことと批判的思考をすることとは独立な話だと思うんだけど(だから敬語を使うのは当たり前と思う)、日本社会一般的には批判的思考を向けるというこ...
僕含めたいていの人はそこまで合理的に割り切れないと思う。増田のことじゃないけど、自分の言ってること真っ向から否定されたらたいていの人は腹が立つ。正論であっても。疑うと...
俺の感覚では「批判」と「否定」は全く違うものと思うのだけど、日本社会一般的にはその2つは同じもの(というかどちらも「否定」である)と解釈されてるということだよね。 そうい...
批判は否定の可能性を扱うもの、というつもりだった。あと、先生とか教科書とか上司や同僚に間違いを指摘される機会はいくらでもあると思う。間違い探しみたいでごめん。