普通に生きてても面白いものなんてそうはないという悟りにも似た薄鈍い不安定な熱を全身の毛先でうっすらと感じながら騙し騙し過ごすことこそが人生だ。少なくとも俺にとってはそうだし、おそらく誰にだってそうだろう。
俺たちは、誰かが洗面器に張った物語に顔を沈めて目を見開いてみたりお金さえ払えば誰でも手が届く範囲の感情に冒険という名前をつけたりして熱さを手に入れようとする。呼吸を止めることと呼吸を忘れることは異義であり、本来俺は忘れたいのだ。
物語は嘘でもリアリティがあればそれが本分だが、興奮はリアルそのものでなければなんの意味もない。しかし世の中という存在はよく出来たもので、確固と成立してしまっている。
つまりそれはそこらじゅうに覆しようのない規則性が充満しているということであり、おそらくその意味もあって俺は呼吸を忘れたいのだと思う。すべてはあと付けの解釈なのだ。
実際のところ俺たちは、たった二割の酸素を七割もの窒素と残り一割のぐちゃぐちゃで希釈した世界を肺に吸いこんで生きている。
そんなものは偽物で、十割の酸素を吸って生きていたいんだというのは俺の理想だが、それをたしなめているのは純度百パーセントの酸素はイコール毒なのだという科学的事実だ。
その事実は、お前の理想はそもそもこの世の中に存在しない形而上的な言葉遊びの存在なのだとでも言いたげな様子で、そのお堅い現実に突き刺さっている。もちろん俺もそれに反論する気なんてない。
だがそれでも俺の無意識な肺が欲しているのは、ニコチンでも科学的快楽物質でも予定調和と野暮に満ちた生温かい蒸気でもなく、やはり十割の酸素なのだ。
気が狂うしかないのだろうか?
http://anond.hatelabo.jp/20151001213321 こうした窒息しそうな閉塞の中で毒に対するセンチメンタリズムに溺れるのは結構だが、あなたの考えてる通りこの世に充満する法則的な毒物を摂取して狂...