2011-05-07

自殺する者の気持ち

私は自殺未遂を3度経験している。その時私がどういう思いだったのか、周りに何を求めていたのかを伝えたいと思う。

もちろん、これから書くことは私の個人的な考えなのですべての自殺志願者の思いや考えに一致するわけではないので、ご留意いただきたい。

自殺未遂を3度と書いたが、最初の2回は「死ぬ死ぬ詐欺」と揶揄されるタイプのものだった。死にたいというよりもむしろ、死のうとする私に周りの関心を向けさせたかったのだ。

この時私が発していたメッセージは「死にたい」「死のうと思う」等の願望や弱い意志を表す言葉だった。周りに自殺を止める隙を与えて、止める言葉を待っていた。

私の場合は未遂に至っていることから推察できるように、止めてもらうことはできなかった。多少はあったかもしれないが十分ではなかった。それでも助かったのは、死を求める気持ちがそれほど強くなかったからに他ならない。二度とも首を吊るのが苦しくなったり怖くなってやめたのだ。けれど、簡単に死ぬ方法が目の前にあったらきっと助からなかっただろう。

3回目は最初の2回と一線を画していた。死ぬという決意に基づいて行動したのだ。周りの関心は必要ではなかった。

けれど、私は弱かった。一人で死ぬことが怖かった。私が死ぬことを誰かに知っていてほしい、できれば早く遺体を見つけてほしい、そう願いメッセージを発した。「今から死にます」「場所はこの辺です」と。

この時はありがたいことに周りは「死ぬな」「やめろ」と声をかけてくれていた。しかし、決意は揺らがなかった。

これを読んでくれている人の多くは、決意を揺らがす方法があったのかを知りたいだろう。結論から言えば、たぶん有った。「たぶん」などという曖昧な表現になってしまうのは、実際そうされたわけではないので確信が持てないからだ。勘弁願いたい。

その方法をお伝えする前に、まずは死のうと決意したときの心境を知っていてもらいた。

その時、私は生きることに強い苦しみを感じるばかりか生きる意味すら喪失していた。また、自己嫌悪もあった。生きる意味のないクズのような人間が生きることに苦しみを感じていると自分を認識していたのだ。

そんな人間に「死ぬな」なんて意味はない。生きる意味も価値もない人間だ死んでもいいじゃないか。いや、むしろ死んだ方がましだ。こいつの言うことは的外れだ。と考えてしまうだけなのだ。

死ぬと決意してしまえば、物事の結論を死ぬ方向に捻じ曲げてしまうことなど造作もない。馬鹿馬鹿しいかもしれないが自殺志願者なんて馬鹿そのものなのを忘れてはいけない。

では周りはどうすればよかったのか。なんてことはない、生きる意味を与え、生きる苦しみや自己嫌悪を取り除いてやればいい。全部やれればベストだが、どれか一つでも構わない。重要なのは死ぬ決意の根幹にある思考を揺らがすことだ。

そのうえ、そばにいてあげれば完璧だろう。相手より力が強ければ力づくでとめられるし、なによりじかに感じる人のぬくもりは重要だ。

私はこれらをしてもらえなかったわけだが。もちろん、周りは必死に止めてくれていた。それについては彼らを責めるつもりは毛頭ないし、むしろひどく迷惑をかけてすまなかったと思っている。

私が落ち着いた後で、そんな必死に止めてくれていた一人に、どうしてほしかったのか、どういうつもりだったのかと聞かれたことをふと思い出しこの文章を書くに至った。

この文章がどこかのだれかの命を救えれば幸いだ。

3度目の自殺未遂については、事故的に助かりました。首をつって意識が飛んで気が付いたら生きていました。運が悪ければ死んでいたでしょう。死への最後の一歩は踏み出しています。

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