個別の馬鹿をたたきつぶすのには、個別の馬鹿の個別的な対応を、公平かつ柔軟に叩き潰す知性と努力が必要だ。
個別の馬鹿が如何にステロタイプの馬鹿であっても、馬鹿と一緒になって馬鹿の主義をステロタイプと認識されている以上に掘り下げなくてはならない。それは自分の思い込みが転覆される危険性のある行為と言えるだろう。
また、それだけ一生懸命馬鹿をねじ伏せてもねじ伏せたのは個別の馬鹿一人だし、別の個別の馬鹿と対立した際に先の勝利がひっくり返る可能性を否定できない。
一方レッテルは反論ができない。レッテルを貼り付けた相手の反論は自分の理解を超えることのないよう都合よく認識されるので、自分の主張の足元が揺らぐことはない(もし仮に危なくなれば適当にその場を誤魔化しつつ、レッテルの別の個別的事象と戯れればよい)。
そしてひとつのレッテルへの勝利宣言は、レッテルに対応する主張に対立する自己の主張の正当性を証明するとともに、レッテルが適用されるべき多数の人間への優越を意味する。
このように考えたとき、無理矢理にでもレッテルを貼りつけそこにこだわる行為には、簡単かつ安全、それでいて効率的に優越感を獲得可能だという素晴らしいメリットがあるのだと推定できる。また自己の主張が絶対的に正しさを確信する一種の全能感を味わう経験でもあるので、そこに中毒になり得る魅力があることも想像に難しくない。
と言ってもレッテル貼りたがりによる議論は第三者から見たとき何等生産的である筈がないので、どうしてそうまでして不毛に優越感なり全能感を得なければならなくなってしまうのかという問が生じるが、これは元増田や私がこのような議論をはじめてしまった内心の観察によって、その解答の端緒がのぞくのかもしれないと思うのだ。あるいは社会の批判的分析によって答えが見つかるのだろうか。
個別の馬鹿なら個別の馬鹿を「個別の馬鹿」と嘲ればいいのに 的を外したレッテルにこだわり続けるのはどうしてもそのレッテルを貼りたいという固い固いカチコチな意志を支える何か...
個別の馬鹿をたたきつぶすのには、個別の馬鹿の個別的な対応を、公平かつ柔軟に叩き潰す知性と努力が必要だ。 個別の馬鹿が如何にステロタイプの馬鹿であっても、馬鹿と一緒になっ...