僕の危機感は、共有されることで消えることなのかもしれない。
無意識はとても恐ろしい。
否定したはずの思考や思想でさえ、無意識にはしっかりと根を張っていたりする。
この点で、自由は隷属を意味している。
自由であると考えている限り、無意識にかけられた鎖の存在に気づくことはない。
そして多分、その鎖を一人で外すことはできない。
例えば、二回連続で繰り返されるTVCMを心地よく思う人は殆どいないにもかかわらず、
その手法で、その商品の売り上げは伸びる。
これと同じことが、おそらく教育においても起きている。
12年間退屈に耐えれた人はきっと、これからも退屈に耐えることができる。
そして退屈に耐えるために必要なのは、忙しさと、刺激だ。
だけどそれってどうなんだろう。
耐えることは良いことなんだろうか?
僕にはそれがとても不自然に思える。
退屈と忙しさと刺激で構成される毎日は本当に素晴らしいものなの?
少なくとも僕にとっては違う。
退屈さは耐えがたいものだ。
退屈さを忙しさで紛らわすために効率悪く物事が行われていること自体、どこかおかしい。