よく中傷されてスルーしない人間に対して器が小さいと言われているのを見かけるが、
その度に思うことだが、スルー力と器の大きさは別だよなあ。器が大きいほどスルー力が高まりやすいことは事実だが、スルー力があるからと言って器が大きいとは限らない。
.
というのもスルー力は個別力だから。馬鹿って言われてスルー出来ても、お前の娘ブサイクって言われたらスルー出来なかったりする。個々の不快な事柄に対して慣れてるかの問題。
あと、スルー力はその場での表面的な心の反応の問題に過ぎず、深層心理的にはスルーできずに後になって悔しさ・怒りがこみ上げてくることも多い。
それに加えて、スルー力は単純に麻痺しているだけのこともあり、それは器の大きさを意味しない。
また、スルーせず現実と向き合うのもまた、器の大きさである場合がある。
こうした点から言って、スルーできたからって人間的な器が大きいことには何ら繋がらない。ここでは最後の二点を少し考えてみよう。
.
よく考えれば分かることだが、スルーできることの1つの良くない場合として、侮蔑的な言葉が侮蔑的だと感じる感性が麻痺しているというものがある。
例えば、死ねと言われて傷つかない人間は、他人に平気で死ねと言えてしまうのではないか。よく考えてみてほしい。中傷されて傷つかないということは、
文脈的に傷つくにあたらないとみなしてる可能性もあるが、その言葉を気軽なものとして捉えている可能性もある。死ねという言葉を気軽なものとして捉えているならば、
他人に対して死ねと言うのにも他の人よりもためらいが無いと予想される。実際に言うかは別としてもし言おうとした場合の話だよ。
今のはごく一例だけど、世間ではそういう気軽に残酷な言葉を捉えている人間が、時として強い人間扱いされている。それは違うよなあと思う。
それは強いのではなくて麻痺してるだけ。麻痺してたら物事を深みをもって感じられないから、たとえ見かけは強い影響力を与えているように見えても、
ある意味では物事を動かすのが下手であり、強いとは言えないと思う。だから、麻痺による強さは、欠陥ある見せかけの強さ。
世間で言うスルー力は、麻痺による強さである場合が少なくなく、器に入れずに済ませているわけだから、器の大きさとは別だろう。
.
それから、スルー出来ないから器が小さい面だけでなく、スルーして見てみぬふりするから器が小さい面もある。
ただの中傷はスルーすべきだが、建設的な批判はスルーすべきではない。表面的には中傷に見えても、建設的ととれる可能性もある。そんな場合に、スルーせずに真っ正面から
向き合えるというのもまた、器の大きさなんだよ。それなのに、スルーしろスルーしろと言われるのは、自分が建設的中傷と向き合いたくないからではないか。