2009-12-28

「邂逅、対話では無く。」

最近口にした罵倒は「こんなに酷い事を言ってもワタシは中立である!何故なら!ワタシは教師だからである!ウソだよ。バーーカ!!」であった。

先の「議論せよ。だが従え。」に対抗させるには、これしか無い。

勿論これは匿名ブログなのだから、誰にも従わず書いている訳だが、

だからこそ、議論とは「議論せよ。だが(私に)従え。」に尽きるだろう。

議論は公平を装いつつも明確に主従関係がある。

マスター(主人)の目的は「(自らの言葉に公平感を持たせる為の)議論」なのであって、

議論に依って公平に物事を決議するのでは無い。そうでなければ人は何故議論する?

公平を良しとするならば、初めから折衷案で良く、議論など全く必要では無い。

従って議論の途中で折衷案を提示しても大して受け入れられる事など無いし、大抵は無駄骨に終わる。

最初から議論の出端を挫く罵倒を浴びせ、敵対する意志を我先に主張すべき。

これまで「批判は良く無い」とでも言いたげな口振りだったが、それは違う。

ワタシの教授の2晩目の授業...。

それは寧ろ「罵倒からこうした宝石が生み出される可能性がある限り、貴方は人と争う事を止めてはいけないだろう」であった。

(出典は菊地成孔著『歌舞伎町のミッドナイト・フットボール』中の『ミスタードーナッツのシュトックハウゼン』)

時に長時間に渡る議論よりも眩しい光を放つ事に驚嘆が隠せない。

因に『網状言論F改』の結界をたったの一言で粉砕したのはスラヴォイ・ジジェクなんかじゃなく、

巻末に添えられたエピソードの、とあるオタクの罵声である。「僕だけが僕の言っているオタクだと思ってくれて良いです!」

そうだ。君だけがオタクだ。君だけが君なんだ。たったそれだけだ。

「オタクとは何か?」と名打たれた議論の中に有って、正にピンポイントを打ち抜かれたような衝撃だった。

これまで引用した、「ナンバリングタイトルの面汚し!」だとか「今更庵野と手を組む気には成れない!」という罵声も同様である。

内心「良く言った。」と思っているのはここだけの話だ。

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