わたしは小学校の読本の中に二宮尊徳の少年時代の大書してあったのを覚えている。貧家に人となった尊徳は昼は農作の手伝いをしたり、夜は草鞋を造ったり、おとなのように働きながら、けなげにも独学をつづけて行ったらしい。これはあらゆる立志譚のように---というのはあらゆる通俗小説のように、感激を与えやすい物語である。実際また十五さい足らぬわたしは尊徳の意志に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合わせの一つにさえ考えていた。・・・・・・
けれどもこの立志譚は尊徳に名誉を与える代わりに、当然尊徳の両親には不名誉を与える物語である。彼らは尊徳の教育に寸毫の便宜をも与えなかった。いや、むしろ与えたものは障碍ばかりだったくらいである。これは両親たる責任上、明らかに恥辱と言わなければならぬ。しかしわれわれの両親や教師は無邪気にもこの事実を忘れている。尊徳の両親は酒飲みでもあるいはまた博奕打ちでもよい。問題はただ尊徳である。どういう艱難辛苦をしても独学を廃さなかった尊徳である。われわれ少年は尊徳のように勇猛の志を養わなければならぬ。
わたしは彼らの利己主義に驚嘆に近いものを感じている。なるほど彼らには尊徳のように下男をも兼ねる少年は都合のいい息子に違いない。のみならず後年声誉を博し、大いに父母の名を顕わしたりするのは好都合の上にも好都合である。しかし十五歳に足らぬわたしは尊徳の意気に感激すると同時に、尊徳ほど貧家に生まれなかったことを不仕合わせの一つにさえ考えていた。ちょうど鎖につながれた奴隷のもっと太い鎖をほしがるように。