生まれてから今まで、君もいくらか短くない時間を生きてきて、
その間にはいくつかの象徴的な思い出のようなこともあったと思う。
しかし君には、今ここに生きている自分が、自分固有の時間を生きてきたという実感をうまく捕まえることができない。
そしてこれまでの人生の、一体どれくらいの時間が本当の自分だったのだろうかと考えたりする。
君は毎日、君を生きている。それは確かに生きてはいた。
けれど今になって、そのときの自分が本当に、
その瞬間に自分の時間を生きたという実感と共に思い出されるということがない。
まして、その証がそこにあったのかと問われようものなら、それはまったく証明のできないことであるような気がしてくる。
はたして君は生きたのだろうか。自分の人生を。自分だけの瞬間を君は選びとってきたのだろうか。
もしかして君はただ、自分の人生のフリをしているだけの時間の流れの中で、過去から現在を過ごし、そして未来へと、
単に身を任せていこうとしているに過ぎないんじゃないだろうか。
そして今、この文章を読んでいる瞬間に、君が君のようにして考えているそのことも、本当に君が君として
君の過去の結果として、そして君の未来への意志として選び取っている考えなのだろうか。
自分の人生。と君は思う。たしかに今、ここに君の固有の時間は流れている。
しかしこれは、過去に存在した君固有の時間の結晶としてではなく、
なんとなく流れた時間の積み重なりの結果として存在する、また新たななんとなく流れる時間の瞬間に過ぎないのではないだろうか。
その君は、なんとなく生きる自分を結果として生きたに過ぎず、本当の君の時間は、その過去と現在を生きた証は、
沢山のなんとなく流れた時間の中に埋もれたまま、もうずっと昔に深い時間の底に沈みこんでしまったのではないだろうか。
だが、多くの人にとって、あるいはそれこそが生きるということなのかもしれない。
このおそらくは、なんとなく流れてきた自分こそが本当の自分の人生で、
かつて存在し、そしていつの間にか失ったように見える輝く自分のほうが実際には存在しない幻の自分なのかもしれない。
君の生きている実感。それはなんですか。
それは一体どのような手ごたえですか。
今これを読みながら君がどのような感想を持つにしろ、
君の生きている実感。それはなんですか。 それは一体どのような手ごたえですか。 人生の選択肢を自分の意思で選びとっているという実感と手ごたえだな。
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