どんなジャンルでも、そのジャンルの勃興期にはこういうことがあるよ。
競争相手なんて(今と比べると)居ないも同然の時代なら、ちょっと本気で取り組めば何を描いても「斬新」で「一番乗り」が簡単に出来た。やりたい放題がそこそこ許された時代だったはず。
ジャンルが成熟してくると技法は洗練され、オーディエンスの目は肥えて好みも細分化してくる。競争は厳しくなり、オールラウンドなクリエータは出てこなくなる。こればかりはどうしようもないこと。そのジャンルの後進のクリエータにとっては、乗り遅れたってことで諦めるしかない。「その時代、その場所」にいることが何より重要、っていうことも世の中にはあるんだ。
けれども。
当時、一般に認められていなかったあるジャンルの可能性を広げてみせた「誰か」がいたからこそ、その後に続くクリエータ達が現れた、とも言える。その「誰か」が手塚治虫である必要はもしかすると無かったのかもしれない。彼はたまたま「その時代、その場所」にいたということかもしれない。でも、彼がいなかったとしても、「誰か」がそこにいる必要はあった。その「誰か」がいなければ皆がこうやってある漫画家について侃々諤々議論を交わしてはいなかっただろう。
「その時代、その場所」にいる「誰か」の役割(苛烈な役割だ)をある人が担ってくれたこと、それはリスペクトに値すると思うんだな。
(その位置にいたのは手塚だけではない、という議論はまた別の話)
マンガにおける手塚治虫の立ち位置って、 ゲームにおけるスーパーマリオブラザーズの立ち位置に似てない? http://anond.hatelabo.jp/20090822034445