「感情」→「感情的」→「バカっぽい」と思っているため、理知的であるはずの自分がそんなバカみたいな怒りや悲しみを抱いていることをなかなか認めたくない、というところがある。
自分のことを論理的だと思っている人間ほど実は感情的だというのは、よくあることだと思っていた。
人間というのは、自分の中に生じる感情のうち、楽しさや喜びなどの感情は認識することには抵抗感が薄いが、怒りや悲しみなどの「負の感情」は認識するのに抵抗感が強い。
実は、冷静で論理的な人ほど、この「負の感情」を抱えた自分を認識している。そして、怒ったり悲しんだりしている自分を冷静に見つめる「もう一人の自分」を作り出している。この「もう一人の自分」が、負の感情を抱えた自分を客観的に見つめて、慰めたり励ましたり判断を下したりするわけだ。冷静さや論理というのは、この「もう一人の自分」が存在して初めて生まれてくるものであって、「もう一人の自分」を存在させるには、まず負の感情を抱えた格好悪い自分の存在を認識しなければならないわけですね。
冷静で論理的に見える人ほど「いや、自分だって感情的なところはあるよ」と言うのは、こういうふうに自分自身の感情的な部分を認識しているからだと思う。
自称論理派ほど感情的に見えるのは、この「もう一人の自分」が存在しないから。
「自分のことを冷静で論理的な人間だと思いたい、『負の感情』を抱えている自分なんて格好悪すぎて見たくない」という思いが強すぎるあまり、負の感情を抱えている自分が本当は存在するにもかかわらず、見なかったことにしてしまう。見なかったことにしてしまったら、それを冷静に見つめる「もう一人の自分」は生まれない。
結果、制御するもののいない『負の感情』が、自分でも知らず知らずのうちに暴れまわることになるのだが、本人にその自覚はない。正確に言えば、自覚したくない。あくまでも自分は冷静で論理的な人間なのだと思いたいから。
だからまあ、やたら論理的な人間になろうとすると墓穴を掘ることになりかねないので、「論理的=カッコイイ」という幻想にあまり囚われないほうがいいんじゃないかな。
真に論理的な人間なんてほんの僅かで、凡人が真似しようとすると、感情の正当化のために後付けのへ理屈をこねることになりかねない。そうなるくらいなら、素直に自分の感情を言ってしまったほうが良いという場合は、多々あると思うんだ。
これは、特に「理知的」であるとラベリングされている男性に多いそうなんですが、自分が相手に「彼(女)に○○して欲しいなぁ」などと感じているとき、時に人はそれを「彼(女)は○○すべきである」という風に思考していると、錯覚することがあります。例えば、「夕飯は手料理を作ってほしい」という感情を抱いたとき、特に男は、それを「妻は手料理を作るべきだ」という、論理・理屈に無意識のうちに変換してしまうのです。それは無意識のうちに行われますから、本人としては「理知的」に考えて言っているつもり(*3)なんだけど、相手にしてみればやっぱり理不尽な命令でしかない。
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自称理論好きというのほどやっかいなことはない。
増田には山ほどいるけどな。 確かにそういう人ほど実際は感情的過ぎて手に負えないのに、自分ではそれに気付いてない。
こういう文の「ほど」の使い方に毎度毎度うんざりする。 後付けの理屈はあるにはあるが書く気は起きない。 そもそも、この「ほど」は意味がよくわからない。話三倍したいみたいな意...
『なんでそう大袈裟なんだ!?単にお互い勘違いしちゃった、それだけの話なのに!後日あてつけがましく言って仕返しじみたまねをするほどの話か!?何がそんなにショックだったん...