2008-11-25

砂の城

理想空間の中に100万の元素があったとして、その組み合わせは100万以上だ。

現実には100万の元素の代わりに、砂や紙、鉛筆、筆、木、ガラス、鏡、コンクリート、パソコン、言葉、色、音楽などなど、本当にいろんなものが存在している。もちろん、それらの組み合わせはそれ自体よりも多い。

だったら、趣味とか興味って、砂浜の砂で作ったお城みたいなものなんじゃないだろうか。

誰かが恣意的に組み立てたものが、長期的に残って多数の評価を受けるようになる。いろんな人がそれに触発されて模倣し始める。砂自体はいくらでもあるから、ある人は知ることの出来る範囲のことに関心を向け、またある人は別の対象の知ることの出来る範囲内のことに関心を向ける。

何を選ぶかは自由だけど、他の人の関心に飲み込まれることがある。「私はAに興味があるのに、Bばっかり話題に出てくるから・・・」

自分の知らない世界はあるんだけど、知らなければ認識できないから、知らないということは存在していないのと一緒。

話題に出来るのは知っていることのみ。知らないことを話題に出すには、その断片を知らなければならない。じゃあ、どうやったらその断片を知ることができるんだろうか。そんなのどーでもいいと思っている人は、その断片に出くわしたとしても、通り過ぎてしまう。そして、知っている話題に引きずり込もうとする。そんな繰り返し。

さてさて、どんなに立派に見えるお城でも砂には変わりない。波に流されてしまう。最初のうちは、修復したり、守ろうとしたりするかもしれない。一度なくなっても同じものを作り直したりする。でも、興味や関心がなくなってしまったり、別のものの方が優先順位が高ければ無関心になっていく。ある閾値を越えると、結局流されてしまう。

一つしかなくて、希少性の高いものならいつまでも守り続けるかもしれない。文化や伝統みたいにね。でも、同時進行でいろんな砂のお城が作られている。そもそも、長期的に残るほうが珍しいわけだ。廃れる前提で考えて、残るほうがすごいって考えるようにしよう。

組み合わせに価値を見出している。組み合わせを土台に新しい組み合わせを考えている。作る人も見る人も楽しい。つまらない人は見なければいいし、別の組み合わせを探したらいい。ときには、「つまらない」と主張して、注目することに楽しみを見出す人だっている。何にどんな楽しさを見出せるかは、人によって違ってくる。それ自体には善も悪もなくて、その行為を評価することによって、善や悪が出てくる。そして、砂のお城だけでなく、それに対する評価や解釈、意見の衝突に楽しみを見出す人も出てくる。

楽しみ方はどんどん広がっていく。でも、細分化されすぎると楽しみが共有できない。だから、体系を作ってみることにした。統合や規格化をすることによって、効率的に物事が進められるし、共通理解を可能にする。これで、安心して一人じゃなくてみんなで楽しめるようになった。

さてさて、そんな繰り返しを何度も見てきて、すべてのことがつまらなくなったら何に興味を見出せばいいんだろう。つまらないというのは、価値を見出す能力を失ってしまったということ。自分から積極的に興味や関心を見出すしかない。つまり、諦めてつまらないまま生きるか、無価値だという前提の上に幻想を見出してそれを糧に生きるしかない。触れると一瞬で崩れてしまうような砂の城。そんな感じ。

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