http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20080818/1219044114
ぼくの考える映画の見方の「正解」というのは、「どう解釈するか?」ということの中にはありません。(中略)その映画の解釈に、一つの絶対的な「正解」があるわけではない。
ぼくの考える映画の見方の「正解」というのは、「見る人の姿勢」の中にこそあります。(中略)それは、「虚心坦懐」に見るということです。
ところで、これに関連したことなのですが、映画の見方の「不正解」として、往々にしてやってしまうことというのが、一つあるように思います。
それは、作り手の意図や思いを汲み取り、それを自分の解釈より上位に置いてしまう――ということです。
映画の見方としては正しいと思う。玉石混交、A級、B級、C級、傑作、駄作がひしめいている映画の見方としては正しいと思う。
一つの正解なんて出せるわけがない。
ただそうではない作品がある。
国語の教科書だ。
いや正確に言うと、そうではない作品が教科書に載ることが出来る。
例えば、国語の授業などでも、「作者は、この小説で何を言おうとしたのでしょうか?」と問うたりします。こんなふうに、人々は往々にして、その創作物の作者というものを、自分たちより上に置こうとするきらいがあります。
よく国語の苦手な同級生が、作者や登場人物が何を考えているかなんか分かるわけがない。正解なんかあるわけがない。と言っていた。
まぁ確かに作者や登場人物が本当に何考えているかなんて分かるわけがない。お前や自分の考えていることすら分からないのに、まして他人の思考など。
ただ、国語の問題には正解がある。
そしてその答えは99%極めて論理的に導き出せる正解だ。
人は泣きながら笑うことも、怒ることもできる。でもなぁ、前の段落に悲しくて泣いている、という証拠がある。終章にそれの裏づけがある。
捻くれていない人がその文章を論理的に読めば、その設問の解答は99%一つに絞れる。たとえ作者が捻くれモノで、その裏に作者の隠された思いがあろうとも。
逆に言えば、そういう問題が作れないような作品は教科書に載らない。
行間を読まなくても、行に書いてある、そんな作品しか載らない。
しかし、そんな作品はつまらないだろうか?単調だろうか?
自分はそんな風には思わない。大人になった今でもまた読みたいと思う作品は多い。
"そんな作品"でありながら面白く、人を惹き付け、"そんな作品"だからこそ名作なのかもしれないとすら思う。
ところで、観客がバラバラな感想を持ち、議論が紛糾してしまうような作品は良い作品なのだろうか?
作者の意図や思いすらまともに伝わらない作品が良い作品なのだろうか。
解釈は観客に任せる、などというのは特定の種の作品には良い演出だと思うが、そんな映画がそうそうあってたまるか。
文章は論理だ。映画も同じだ。意味が如何様にも取れる文章というのは、日本語の勉強が足りない。
それとも他人に自信をもって伝えるだけの自信ある信念がなかったのかもしれない。
いや本当は他人に伝えたい思いなど端からなかったのかもしれない。
曖昧であることが芸術なんかじゃない。深読みは賢い観客のすることじゃない。
それは名作なんかじゃない。彼はもう名監督じゃない。