非モテと一口に言っても、「モテたい非モテ」か「別にモテなくてもいい非モテ」なのかで話は全然違ってくるよな。
そこんとこは分けて考えるべきなんじゃないか。非モテと一くくりにせず。
また、非モテ自身も、自分がどちらなのか見極めるべきだ。自分自身ですらごっちゃにしてしまっている人が結構いる。
で、別にモテたくない非モテ、というのは、もう何もアドバイスすることなどない。というか、そもそも困っていないはずである。モテたくないという欲求と、現実モテていない、という現状とが完全に一致している。パーフェクトである。何も問題が無い。そのまま理想の人生を歩めばよい。
問題は、モテたい非モテなのだが、これも、よく考えれば非モテ特有の悩みではなく、「こうしたいけど、自分の能力が足りない」という一般的にごくごくありふれた悩みである。というか凡人の悩みの9割がこれなのではないか。モテ非モテだけでなく、例えばバスケがすきだが、なかなかレギュラーになれない、ある大学に入りたいが、知力が足りない、と、このタイプの悩みを抱えたことのない人はほとんどいまい。
この手の悩みには、一昔前の「努力すれば必ず道は開ける」という楽観メソッドから、さすがに違うだろと気がつき始めた凡人たちのためにちょっと捻りを加えた「努力すれば必ず道が開けるとは限らない。しかし、道を開いた奴は皆が努力していた」タイプ、そして今はそこから様々な亜種が生まれたり、各々の啓発本で日々新たなメソッドが生まれては消えていっているが……どれも決め手には欠けている。
何かに悩んでいる人というのは、解決策を知らないのではなく、一番良い解決策を面倒でしたくないだけである、……と森博嗣だったか誰だかが言っていたが、それは実に的を射ている言葉だ。
解決策というと語弊があるかもしれないが、要は、人間、悩みに対してやれることは3つしかない。
一、諦める。
二、努力する。
三、諦めもせず、努力もしないまま、悩んでいる「今」を持続させる。
どれが一番いいとか、悪いとかそういうことがあるわけではない。ただ「やれること」は結局これだけしかない。
これを意識するだけでも、違ってくる。たいていの人は、自分が「三」を無意識に選んでいることに気がつくだろう。それが悪いわけではない。そのまま死まで逃げ切る人も多い。「三」は要するに、言葉を変えれば、「一」にするか「二」にするかの判断を先延ばしにしている、という状態である。どちらにせよある程度の痛みは伴うため(その種の人にとっては)、もっとも痛みの少ない「三」を、「とりあえず」選んでいるのである。
このことを意識すると、非モテ本人も、また、非モテへ一言いいたくなる人間も、大分変わってくるだろう。
非モテへ一言いいたくなる人間は、非モテの言葉が、どれなのか判別したのち、声をかけるとよい。何を求めているのかを判断しないと、てんで見当違いの事を述べることになる。
例えば「三」を選んでいる人に対しては、「こうすればモテるようになる」という言葉も、「モテなくてもいいんだよ、みつを」という言葉も、「もう諦めろ、お前じゃ無理だ」という叱咤も、「努力したからってモテるとは限らないが、モテたいなら、努力するしか他に方法はないだろう」と言う言葉も全てが的外れである。それらの言葉は要は全てが、『「一」か、「二」を選び実行せよ』というアドバイスであるのだが、「三」の人間は、まさにそれこそをしたくないのであり、ゆえに見当違いとなる。
この辺の相違を分かりながら書いている人が、割りと少ない。
めんどくさいのが、webなんかで非モテを自称してクネクネクネクネしてる人の大半が 「モテたい非モテ」でも「別にモテたくない非モテ」でもなく、 「俺は本当は内面性を考慮すればそ...
要約すれば 現実を見ないで、自分の妄想に凝り固まる奴が非モテということだね。 やっぱり去勢すべきだよ。 去勢しないと秋葉原連続殺人犯や八王子駅殺人犯のようにならないとも限...