ある種の疎外を受ける辛さは、疎外された者にしか判るまい。
けれどもその辛さを解消する術は、疎外されることを辛いと感じているうちは見出せない。
小〜中学校の間、クラス全員から苛められていた。いや、クラス替えによってこの情報は他のクラスへももたらされたから、実質的には学年全員だ。
物理的にも精神的にも辛い思いをしたけれど、それを認めてしまえば逃げる先は登校拒否か死しかない。私はこれに「周囲を蔑む」という方法で対処した。本当に辛いのはお前たちの方だ、私は何も辛くない……という優越感ゲーム。
精神の崩壊を阻止する方法としては有効だったけれど、代わりに人を遠避けるという弊害も発生した。まあ当時は利点だったわけだけど。
それが人格として固着してしまって、今では重度の非コミュだ。度々周囲から、それを治すよう強いられる。改善策も授けられる。方法論としては理解できるけれど、受け入れることができない。「変わらなきゃ駄目だ」と言われても、変われないことを変えなければ変われなくて、変われないことは変われないのだから変えられない。
周囲は私の辛さを知らないから、どうして変われないのか解らない。解りようがない。だって彼らは「変われない」という状況を経験したことがないんだから。
一方で私は多分、「自分を変えられる」ということを理解できない。恐らくそれは私にだって可能なのだ(原理的には)。でも、こうしてもがいているうちにはそのやり方を受け入れることは不可能。きっと、変わった時になって初めて理解できることなのだろうと思う。
このふたつは永遠にすれ違う。決して交わることはない。たとえ非コミュを脱した経験者から語られたとしても「だってアンタは治ったじゃないか。私のは治らないんだよ、一緒にするな」と拒否してしまうだろうし、多分脱非コミュに成功した側もまた、今度は「どうしてそれができなかったのか」が解らなくなってしまう。
第三者として見るのと当事者として見るのはまったく違うことだ。同じものを見ていても、同じようには見えない。お互いに、相手の見え方を知ることこそが重要で、そして不可能なことなんだ。