ここら辺が非常に分かりづらいが。
「プロセスを経て生まれた資格者」と言うが、1人目を決めるところでは、どうしても無根拠かつアクロバティックに誰かを選出せざるをえない。
その人を何という名前で呼ぼうが、この1人目を選出する際に社会的なプロセスを介入させてしまっては、現在の日本社会と大差なくなる。
「社会的なプロセス」の意味がくい違っているかも知れないが、それが国家試験のようなものを意味するならそれは官僚制と呼ぶべきものだし、
選挙によるなら民主主義社会となって、現在の日本社会とそう大差ないものになる。少なくとも人格者論の意義は消えてしまう。
「生まれ」による貴族政というものあるが、これにはプロセスが介在していない。
人格者の1人目、あるいは人格者の最初の1群をどうやって決めるかについて、一つ考えられるのは武力行使を伴う革命だが、
増田のいう「人格者」に「道徳的」の含意がなかったとしても、「人格」というものは常に人と人との関係において判断される基準であるし、
しかも、2人目以降の育成・選出は社会の自己生成的プロセスに拠らなくてはならないから、
1人目を選ぶときに社会そのものを大きく変質させたり、壊してしまうことは許されない。
それとも、最初の人格者がすべてを壊し、イチから社会をスタートさせようという話なのか。
だとすれば、それは人格者ではなく、むしろ本当の意味での独裁者、あるいは創造者と言っていいのではないか。
もう一つ、人格者論の対立軸として参照されるべきは民主主義や官僚制でなくて、三権分立だろう。
現在は、立法機関を選挙で、行政・司法機関を国家試験で選出しているわけだけど、人格者論が成功するためには、
(それぞれの選出方法をどう改革するにせよ)最低でも全ての機関を「人格者」なる者たちで占めなくてはならないだろう。
全ての機関が、同様の思考を持つ人格者たちによって占められてしまえば、例え機関が3つに分かれていようが、三権分立の意味はなくなる。
人格者同士の間における考えのくい違いがあるのかないのか、その辺はよく分からないが、違ってよいのだとする場合、
そこには手続き上のルールが必要となるだろう。
異なる思考の人格者同士がよりよい自己生成を繰り返していける、というのは、可能性でしかない。
可能性でよい、というなら、それはけっこうだが、そうした同様の可能性は、官僚制や民主主義も確かに持っている。
さらに言えば、一度間違ったときの修復可能性は、民主主義や三権分立の方が圧倒的に高いだろう。
結論としては、
・最初に無根拠に「人格者」を選ぶというのはどういうことなのか
・実際に人格者論を今の日本社会に適用するならどうするか(現実的に可/不可という問題ではなく)
をまず考えるべきなのではないですか。