死
極論をいえば、人が生きていること、人類が存在していることに、客観的理由はない。
楽しいとか苦しいとか生きているとか、それらはすべて主観的な意味にすぎない。客観的な理由などない。
ただ、死は恐い。おそらく本能として組み込まれているだろう、死への恐怖。
自分の死だけでなく、周りで起こる死にも恐怖を感じ嫌悪する。
客観的理由があるわけではない。
楽しいとか苦しいとか辛いとかと同じく、死への恐怖や嫌悪は主観的に感じる感情でしかないがお願いする。
死なないでくれ。死ぬのも死なれるのも嫌いなのだ。感情的にお願いする。
というわけで、http://anond.hatelabo.jp/20071206110711 とか http://anond.hatelabo.jp/20071206112214 とか http://anond.hatelabo.jp/20071206131438 とかになんだか納得するのだ。
自殺はきわめて論理的に行われるが 自殺そのものは非論理のきわみだ
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それが時にものすごく残酷なお願いになるってことも理解した上ならOKだと思う。