http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20071031-00000020-mai-soci
この件に関するブログを一通り見て回って、「三棒」について触れているところは、パッと見ないようだったので、書いてみる。
「三棒」は、落語のまくらのひとつであり、「高座で悪く言っても客に怒られない、三つの題材」をさしている。
大体こんな感じ。
一つ目は「けちんぼう」。吝嗇な方は、身銭を切ってまで、寄席なんぞにはいらっしゃいません。「笑いたいなら、家帰って女房に脇くすぐってもらえばいいじゃねぇか」というわけですので、いくら悪く言っても聞かれる心配はない。
皆様も、木戸銭をお払いになって下さったわけですから、けちんぼうとは違いますが、もし皆様のお知り合いの中に、けちんぼうな方がいらっしゃいましたら、あらかじめお詫び申し上げておきます。
二つ目は「つんぼう」。耳の聞こえない方です。耳の聞こえない方は、落語なんて聞けませんから、当然寄席にもいらっしゃらない。
……ですが皆様のお知り合いの中に、耳の悪い方がもしいらっしゃいましたら、あらかじめお詫び申し上げておきます。
三つ目は「泥棒」。泥棒の方が寄席に参りまして、泥棒を悪くいう噺を聞きましても、「やい、このやろ、俺たちの仕事を悪くいいやがって」などと、名乗り出ることは、まぁ、できません。ですから泥棒がこっけいな失敗をする噺も、構わないわけです。
……ですが皆様のお知り合いの中に――(ここで笑いが起こる)
この敬老会では、「つんぼう」が何人かいたという。夢之助さんも、さすがに「三棒」はやらなかっただろう。
けれど落語には、どうしても差別的なところがあって、「三棒」は置いても、傲慢なお侍を笑い、無知な町民を笑い、垢抜けない田舎ものを笑い、媚びへつらう幇間を笑う、そういう世界でもある。「聞こえない人に対する侮辱(島根県ろうあ協会の抗議)」はとても正しいが、落語には「侮辱を笑いに変える」面がある。落語を批判しようと思えば、いくらでも批判できる。でもそうはならない。
もちろん、耳が悪い人が寄席に行ったっていいだろうし、それで楽しめれば素晴らしい。ハンディのある人が楽しめる工夫をすることは、いいことだ。そして夢之助さんの態度は、とても残念なものだと思う。
「笑いとは差別的なもの」とか「落語家の人間性なんてそんなもの」とか言いたいわけではない。俺が問題だと思ったのは、
同じ、お笑いでも、落語家など伝統と格式がある世界の人で思慮深いと思っていたのに?
落語の話なんかも、そういった思慮の深さを表現する作品多いのにね。
所詮、この人はこのレベルの人格てことなんだろうね。
言葉を売りにしているプロが言葉を選ぶべき状況なのに。
配慮というのは、「落語だから」、「プロだから」するのではなく、相手を思いやるからするのではないか。
あとなんか忘れた。