一人で悩んでいると大抵悲観的な方向に向かってしまうものだ。
だからあまりに堂々巡りな悩みは、人に相談したいところ
しかし、悩みを、あけっぴろげに、全てを筒抜けにし、話すというのは、とても勇気のいることだ。……自分にとっては少なくともそうだ。悩みというのは大抵自分の恥ずかしい性格やいいたくないことが関わっている。いいたくないといっても客観的に見れば大それたことでもなく、ただ単に「こんなことにいちいちこだわってるなんて、神経質だと思われるかも」など、そのていどの「恥ずかしさ」なのだが、実際に自分が誰かに相談する時はその程度の「恥ずかしさ」がものすごいプレッシャーとなって襲い掛かる。……少なくとも自分は。
もともと自分を全部出すというのが恥ずかしいのである。
匿名ならほとんど出せるものの、それでも全てをあけっぴろげに書くというのは恥ずかしい。
自分は仙人じゃない。滅茶苦茶俗っぽい部分や、恥ずかしい虚栄心、自惚れ、そういったものが多分に含まれている。それはよく考えてみればどんな人間であろうと多少はそうであろうし、だから人間なのだろうが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしいのである。もしかしたら欧米人は感覚が異なるのかもしれないが。
であるから、相談する時、わざと、一段抽象的な話にしてしまうのである。具体的な悩みを、一般化させて尋ねてしまう。しかしそうすると、相手には当然、うまく伝わらない。結局相手がとんちんかんな答えを返してきたりして、それにイラっとして「そうじゃなくて」と言い返し、相手も「でもそれじゃよくわからない」と当然の正論を返し……と泥沼化しやすい。
具体的な事を言えば、話は早い。だがそれができない。しかし相談はしたい。その上での苦肉の折衷案なのだが、大抵、結局うまくいかない。
やはり「素直になる」事を避けられないのである。
他人に対し、それを避け続ければ、結局、「他人とは基本的にうわべの付き合い、悩みや何やらは全て自分の中だけで鬱々と考え込む」という自分のような人間になってしまうのであろう。
それが悪いとかいいたいわけじゃないが、少なくとも自分は嫌なのである。そうした自分が。
大体、親兄弟に対してすら、素直になれないのである。
子供の頃からそうだった。
素直になれないが、本当は素直になりたいのだ。でも恥ずかしさがそれを押し留めている。この性格はちっとも変わってはいない。
子供の頃は、ただ、母が察してくれるのを待っていた。自分の恥ずかしさを隠した抽象的な相談から始まり、母が何がいいたいのかわからないと、いくつも質問をぶつけてくる。そうするうちに、母が察して、自分の素直な気持ちを当ててくれるのを待っていた。それに頷くことでやっと真の相談が始まる、といった具合だ。
しかしこの相談法は当然ながらあまりに拙い相談法である。
母も、母だからといって当然自分の全てを知っているわけではない。母の「察し」がまるで当たらず、自分が癇癪を起こしたこともある。そうした場合は大抵母も怒り(当然だ)、自分も怒りで、結局「お母さんに相談してもだめだ」という結論に終わり、相談は失敗する。そんなことも多い。
そしてなにより、あまりに遠回りであるし、そもそもこれすら「出来ない」こともあった。自分の素直な気持ちに頷く事すら怖いほど、相談が「自分的恥ずかしさ」に引っかかっている場合(大抵虚栄心などである)、「抽象的な相談」すら、それをきっかけに母が自分の素直な気持ちを察してしまうのではないか、そうしたら頷かないといけない、でもそれは怖い…と考え、出来ない事もあったのだ。
そして大人になった今、ますます「素直」になることは難しくなった。母親にさえあんな調子だった自分が、一体どうして他人に素直になれるのか。もう、母親に子供の時の手法を使うこともできない。ネット上なら?いやいや、ネット上の相談場というのは、ほとんど相談者のアラを叩くために存在しているようなものなのだ。相談という場には適していないと個人的には思う(そうでない場合もあるが)。文字だけではなかなか心情が伝わり難いというのもある。そもそも素直以前に、身元バレの問題で深く書き込めないこともある。
素直になれば楽だろう。
そう分かりつつ、素直になれない。
自分をさらけ出すのが、恥ずかしい。自分をさらけ出すのが、怖い。
素直に、なれない。