「○○人」と「●●という職業」。どちらの中にも尊敬すべき人間がいる一方で性根の腐った人間もいるという事は頭では理解できる、そして「○○人的気質」「●●という職業的気質」には「善悪」や「貴賎」も何ら関係しないという事も当たり前だと思っている。でも実際「気質」が何らかの「差異」を生む以上、やっぱり一概には言えないところもあるのではないのかという考えに陥ってしまう。つまり「気質」に「善悪」や「貴賎」を見出しては「いけない」というのは倫理であって論理ではないのではないのか。レイシズムや差別主義は憎むべき存在である事は疑いようの無い事実だが、その上で「(○○人的・●●的)気質による差異」の存在を認めるのは明らかに矛盾しているのでは無いのか。であれば「気質的差異」は無論の事、「気質」すらも存在しないとしなければいけなくなってしまうのではないのか。この葛藤に自分で折り合いをつける事ができないでいる。