http://anond.hatelabo.jp/20070223205131
デカルトが方法的懐疑を言い出したのも、最初は「ちゃんと認識すること=世界の真理を認識すること」が目的だったんだよね。
疑うことで、誤謬を避けて確実な知識を手に入れ、最後には神の創造したこの世界の真理に到達する、みたいな。
でも、そのうちに「世界の真理」という究極の目標そのものが失われちゃって、世界は人の数だけあるということになったものだから、目的が失われて手段(方法的懐疑)だけが残ったとか。
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疑うことと知ろうと(ちゃんと認識しようと)することは違うと思うなぁ。
http://anond.hatelabo.jp/20070223205131 デカルトが方法的懐疑を言い出したのも、最初は「ちゃんと認識すること=世界の真理を認識すること」が目的だったんだよね。 疑うことで、誤謬を避けて...