なんにしたってじかんがたりん。
ぼくはなにかをなしとげようとしたら、なしとげるのにそうとうなじゅうでんきかんがひつようだ。
ふだんのにちじょうのしごとで、たくさんのひとときょうりょくしてなしとげることは、おくれることもなくなしとげられる。
もんだいは、ぼくひとり、ぼくのための、ぼくだけのてがらにするための、ぼくひとり、ぼくによる、ぼくだけのなしとげなければならないことだ。
それはいろいろなかたちやあんがあり、さまざまなかたちとさまざまなぎじゅつがひつようだ。
それらののうりょくをみにつけるため、そうとうなじゅうでんきかんがひつようだ。
それらはおそらくこのねんれいのうちでなければみにつかず、なしとげられもしないだろう。
なんにしたってじかんがたりん。
にちじょうのしごとは、にんげんしゃかい(笑)でいきていくためになしとげなければならないことだ。
それをなしとげなければ、いきていることはおろか、ぼくのためになしとげなければいけないことについやすひようがなくなってしまう。
じゅうでんきかんなんてあまえだ。
そうおもうひともいるだろうけれど、それはきみのりくつだ。
ぼくのりくつでこのせかいはまわるべきだ。
だからけっきょく、なんにしたって、このせかいにはじかんがたりない。
君「は」時間をもてあましているじゃないか。笑 毎日
まったく関係ないけど こういうひらがなだけの文章ってすごい見づらいと思わないか。 カタカナだけならもっと見づらい。 さらにいうと戦前の漢字+カタカナのものも見づらい。 脳...